2022年3月6日 第一聖日礼拝「わたしの隣人とはだれか」<ルカ10:25-37>中村和司牧師 

2022年3月6日 第一聖日礼拝「わたしの隣人とはだれか」          中村和司
<ルカ10:25-37> 
25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

お祈り頂きまして、良恵先生も回復し、療養も終えて家に戻る事が出来ました。感謝を申し上げます。そしてそのような中で、先週は初めてオンライン礼拝となってしまったのですが、ご自宅での礼拝はいかがであったでしょうか。しかし皆さんが全てYouTubeを見れる訳でもありませんし、確かに便利な時代になったとも言えますが、しかしやはり、皆さんと一緒に礼拝を守る事が感謝だと思います。これからもご一緒に礼拝が守れるように祈っていきたいと思います。
そして一緒に集う方々が、なお増し加わっていくよう祈っていきましょう。先週、オンライン礼拝ですから、教会に来られる方は殆どいないのですが、それでも午前中に外部の人が3人来られました。宅配便の方々です。荷物を持って来て下さるのはありがたい訳ですが、逆に私達にある福音を受け取って下さる方が、沢山来られるようにお祈りを頂ければと思います。特に、受難節、レントに入りまして典礼色も変わりました。イースターへの歩みになっています。このイースターには、昨年のクリスマスに引き続いて、多くの方々をお招き出来るように、祈り備えていきましょう。
さて、有名な「善きサマリア人」の所を読んで頂きましたが、事は、ある律法学者が主イエスを試して、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と、問いかけた所から始まっています。「永遠の命を受け継ぐ」とありますが、イスラエルの民は神の民として、やがてメシアによって永遠の神の国が到来し、御心に適う者は、永遠の命にも与れると信じていたのです。そしてこの律法学者は、「何をしたら」と言っていますが、自分達は律法を守っているのだから御心に適うはずだが、しかし確信はない中、主イエスはどうなのかと試したのではないかと思います。
しかし主イエスは、逆にこの人の心を探るように、また正しく理解しているかを問うように、あなたが寄り頼んでいる律法には何と書いてあるか、と尋ねられたのです。するとこの人が27節、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と答えたのです。しかしこれは実は、本来主イエスが語られた言葉なのです。この律法学者は、どこかでこの主の言葉を聞いていて、それをそのまま使ったようです。
そして、それこそ正しい答えでありました。それは本当の神の子供の姿を現していました。神の国と永遠の命というものを本来相続出来るのは、本物の神の子供であります。実に神の子供こそが、神の国とその命を相続出来るのです。そして本物の神の子供こそ、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、父なる神を愛し、また、隣人を自分のように愛する存在なのです
主イエスは、「それを実行しなさい」。あなたは本物の神の子供の生き方が出来ますか。全身全霊で神を愛し、隣人と愛し合っていますか。あなたの隣人関係は、どうですかと、この人に問われたのではないでしょうか。そしてこの人は、自分は律法を守り、神を愛しているつもりでしたが、しかし、隣人と言われて躊躇したようです。「そもそも異邦人は、隣人ではない。ユダヤ人も律法を守らない者は、同胞でも隣人でもない。そして律法に熱心な仲間達は、隣人というより競争相手。私が愛すべき隣人など、大体どこにいるのか」。この律法学者は、そう感じたのではないでしょうか。しかし私こそ、やるべきことはやっている、実行しているのだと、29節「彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った」と、また問うていったのです。
今日は、神の国と永遠の命を受け継ぐ、本物の神の子供となれるように、私達の隣人関係について、心を留めていきたいと思います。そして第一に、「隣人を知らない人」。第二に、「隣人になった人」。第三には、「隣人に出会った人」、という事に心を向けて行きたいと思います。

まず第一に、「隣人を知らない人」という事ですが、この律法学者こそ、隣人を知らない人であったと言えます。なぜなら、「私の隣人とは誰ですか」と聞いているからです。勿論それは、私が愛すべき隣人とは誰ですか、という意味ですが、要するにこの人は、自分が愛すべき隣人を知らなかったと言えるのです。この人は、人々からそれなりに尊敬されていた人物であったかと思います。しかし愛すべき隣人について、直ぐに答える事が出来なかったのです。
確かに彼らはよく勉強し、信仰に熱心ではあるのですが、結局、自分達の専門分野に熱心であるのであって、隣人関係が決して豊かで深いものであったという訳ではなかったのです。ですから、隣人が決していない訳ではないはずなのに、私の愛すべき隣人とは誰ですか、と聞いてしまほど、その隣人関係は乏しく、冷たいものであったのです。
私達はどうでしょう。もしこの律法学者に、「では、あなたの隣人とは誰ですか」と、もし問われたら、皆さんはどうお答えになるでしょうか。恐らく、その隣人を自分と同じようにと愛せるかは別にしても、とにかく自分が気に入っている隣人達を、ある程度あげる事は出来るのではないでしょうか。それは、家族であったり、友人、知人、仕事の同僚、ご近所、色々あるでしょう。
しかし今度は主イエスに、「あなたの隣人とは誰ですか」と、尋ねられたらどうでしょう。その時私達は、それまで自分の好みで、隣人関係を見ていたのを止めなければならなくなるのではないでしょうか。全てをご存知で、全てを握っておられる主イエスが、「あなたの隣人とは誰ですか」と言われたなら、それは主イエスが隣人として置いて下さった、全ての隣人関係の事が言われていると、私達は感じないでしょうか。そしてそこには当然、自分とは気の合わない人、避けたい人、顔も合わしたくない人、という人も入ってくるのです。そしてそのように主イエスに言われる時に、実は、私達もまた、自分の隣人というものを分かっていなかった、という事が言えるのではないでしょうか。
ですから、そういう意味では私達も、この律法学者と同じところがある事を知らなければなりません。そして、ここに描かれている律法学者の他の点についても、私達にそういうところがないか、吟味しなければならないと思うのです。
この律法学者が、神の国での永遠の命を求めるのは素晴らしいのですが、「何をしたら」というように、いつしか自分の力、自分の功績に結局寄り頼もうとする、傲慢というものがないか、吟味しなければなりません。主イエスは、誰でも幼子のように、自分を低くする人でなければ、天の国には入れないと明言されています。天の国の門は、遜った小さい者しか入れない小さい門であるのです。
そしてこの律法学者のように、「自分を正当化しようと」するところがないかという事です。正当でないのに、自分で正当化してしまうという事です。つまり、着飾って、真実を覆い隠してしまうという事です。偽るという事です。天の国は、全てを見通される方が治めておられ、全てが透き通るような聖い光に覆われている所なので、何事も隠せない、偽れない所であります。
そして、主イエスの語られた「善きサマリア人」の例えに出て来る、祭司やレビ人もまた、この律法学者と同じように、隣人を失っている人と言えると思いますが、この人達の特徴は、31節、32節にありますが、「その人を見ると、道の向こう側を通って行った」という事であります。この「道の向こう側を通って行った」という言葉は、元のギリシャ語では一つの単語で、新約聖書ではここにしか使われていません。「反対側」という言葉と、「傍ら」という言葉、そして「歩む」という言葉の、合成語であります。この「傍ら」というのは、「離れて」いう意味合いもありますが、要するに、真っすぐ歩かないで、わざわざ離れた傍らを、それも一番遠い反対側を通って行ったという事であります。そして原文をみると面白いのですが、この人達の行動には、迷いや心を引き摺っているような所がないのです。瀕死の行倒れの人を見るなり、反射的に反対側を通って過ぎ去っている、そのようなギリシャ語の表現になっています。つまり彼らの心自体が、そもそも隣人に開かれた心ではないという事なのです。要するに、自分の事しか頭にないのです。自分の事しかない心なのです。
彼らは神殿で働く、神と人に仕える人達でありましたが、誰も見ていないこの所で、いざ自分に何か困難が及ぶと思われるような事柄に遭遇した時、彼らのその自己中心な心が、反射的にそういう行動を取らせたのです。ですから、私達も普段のありのままの心自体が、自分の事しかないような自己中心の心になっていないかという事です。天の国というのは、全てが主イエス中心、愛中心の所ですから、自己中心では孤立するだけで、仮に天の国に入れても、天の国の交わりには入れませんし、生活も出来ないという事なのです。
主イエスに、「あなたの隣人とは誰ですか」と問われて、全ての隣人関係を喜んで答える事が出来るためには、私達の心自体が、傲慢や偽りや自己中心から解き放たれた、隣人に開かれた心である必要があるのです。

第二に心を留めたいのは、「隣人になった人」であります。つまり、この祭司やレビ人と対照的な、善きサマリア人の事であります。サマリア人というのは、ユダヤ人が見下し、交わりを絶っていた人達であります。そして倒れていた瀕死の人はユダヤ人でありました。
しかしこうあるのです。33~35節「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
このサマリア人は、その瀕死のユダヤ人を見て、憐れに思ったとあるのです。この「憐れに思う」という言葉は、上から見下ろすという事ではなくて、心の底を揺さ振られるような、同情の念に襲われたという事を表しています。このサマリア人の心は、自分達を虐げるユダヤ人にさえ心閉ざされていなかっただけでなく、もはや民族自体には囚われていないように思えます。
そして当時、エルサレムとエリコを結ぶ道というのは二つあったのです。そしてこの道は近道であるけれども、山賊の出やすい危険な道として知られていたのです。ですからそこを通った祭司やレビ人は、急いでいたという事も言えるかもしれません。そしてこのサマリア人もまた急いでいたと共に、ユダヤ人を避けていた故、この道を通っていたのかもしれないのです。
しかしそのサマリア人が、瀕死の人を見て、激しく心を動かされたのです。それはこのサマリア人が、疎外されてきた者として、人も痛みのよく分かる存在であったからではないでしょうか。そしてこのサマリア人は、わざわざ近寄ったのです。そしてその瀕死の人の傷に油と葡萄酒を注いで手当をし、包帯を巻くのです。そして自分が乗っていたであろうロバにこの人を乗せ、自分は歩いて、宿屋にまで連れていくのです。そして彼は、やはり旅を急いでいたので旅立つのですが、その後の介抱を、宿屋の主人にお願いして、その代金まで払うのです。
まさにここまでやるかと思うほど、至れり尽くせりの事をするのです。まさにそこには制限、限界というものがないのです。私達は何をするにしても、必ず制限、限界をつけるかと思います。それは自分を守るためであります。そうでないと自分が倒れてしまうからです。しかしこの善きサマリア人の場合、何故そこに制限、限界がないのか。それはそれこそ、この瀕死の人の心と心がつながっていたからではないかと思います。その思いが身に染みて分かるからではないでしょうか。そのように自分と結ばれて一体である時には、もはや制限、限界をつけたくても出来なくなるのです。そしてそれはこの善きサマリア人が、この瀕死の人を、まさに自分と同じように愛したからであると言えると思うのです。
この善きサマリア人は、決してスーパーマンではありません。ただその襲われた瀕死の人と心が繋がった時に、そうせずにはいられなかったのです。隣人になる、それは何かをする事ではなかったのです。無力であろうが、弱かろうが、その心が分かる、その心が結ばれるところから始まっていたのです。

第三に心を留めたいのは、「隣人に出会った人」であります。端的には、善きサマリア人に出会った、この襲われた瀕死の人と言えるでしょう。この人は、最早何も出来ず、何も言えず、無力の極みの中にいる人でありました。
しかし、この人だけとは言えないのです。それは隣人を知らなかったこの律法学者も、主イエスの話を聞いて、本当の隣人を示されたのです。「誰が隣人になったか」という主イエスの問いに、この人は「その人を助けた人です」と答えています。直訳するなら「その人に、憐みを行った人です」と答えたのです。
そしてその律法学者に主イエスは、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われたのです。「行って」とはどこへでしょう。その襲われた瀕死の人の所です。これ自体は例え話ですが、あなたの普段の生活の中で出会う、あなたが反射的に道の反対側を通りたくなる人の所という事です。つまり、あなたの心と力では、あなた自身では、どうにも出来ない人の所と言う事です。
そして、「あなたも同じように」と言う事ですが、何と同じようにという事でしょう。この善きサマリア人と同じようにという事です。 つまり、自分の無力さ、自分の隣人に閉ざされた心という事を本当に示されるそのところで、まずこの善きサマリア人を覚えなさい。まずこの善きサマリア人に心を向けなさい、という事なのです。
そして「同じようにしなさい」とあります。この善きサマリア人の歩みに自らを置いていきなさい、その善きサマリア人の後について行きなさいという事です。
そして、そのあなたが生活の現場で心を向けるべき、その善きサマリア人が実際にいるのだ、という事です。そしてその実際におられる善きサマリア人こそ、主イエスご自身であり、私達の真の隣人になって下さる方であります。この主イエスこそ、最も虐げられながら、誰に対してもその心は開かれていたのです。どんな人をも、どんな状況をも、決して避ける事無く、その心を知って下さり、理解して下さり、私達の心を共有して下さるのが、主イエス様であります。そして、私達の心を共有して下さるだけでなく、ご自身を共有して下さるのです。ご自身を私達に与え、献げて下さるのです。ですから最早、制限も、限界もなく、どこまで関わって下さり、庇って下さり、伴ってくださるのです。
この律法学者は、隣人を失ってしまうような、傲慢と偽善と自己中心の中で、「わたしの隣人とは誰ですか」と叫ばざるを得なかったのですが、そのような罪人の隣人になって下さるのが、主イエス様であったのです。そしてこの律法学者は、その例えの中では、自己中心な祭司やレビ人であるだけでなく、別の意味では、隣人を見出せず、行倒れたままのその瀕死のユダヤ人こそ、実は自分なのだと気づく必要があったのです。
三浦綾子さんの名作、「塩狩峠」の主人公である永野信夫という人は、路傍で教会の伝道師のメッセージに感銘を受け、その伝道師と個人的に話をします。しかし、自分の罪という事がまだ分からない信夫にとって、この自分の故に、キリストが十字架に掛かられたという事が分かりません。
そこで、聖書の御言葉を、一度徹底的に実際に実行してみるように、勧められるのです。そして信夫が、取り組んでみたのが、この善きサマリア人の話であったのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」とあるので、自分もこの善きサマリア人のような善き隣人であろうとしたのです。信夫は、仕事の同僚で、三堀峰吉という、酒飲みで、人の給料袋に手を出してしまうような手癖も行状も悪い同僚の、善き隣人であろうと一生懸命努力するのです。
しかしこの三堀という人は、信夫が本当に親身になって、自分を犠牲にしてまで、庇い、寄り添い、支えようとすればするほど、感謝するどころか、恩を仇で返すような悪態、罵声を浴びせられるのです。信夫は、表には出さなくても、そのような態度に内心、三堀への憎しみでその心は一杯になっていってしまいます。そして信夫は、苦々しい思いにかられながら、自分なら本当の隣人になれると思っていた、自らの傲慢を示されるのです。そして神に祈るのです。結局、祈るしか出来なかったのです。
するとその時、神の声を聞くのです。あなたは隣人どころか、あなたこそ、隣人を必要としている瀕死の旅人ではないか。そして真の隣人である、あの善きサマリア人こそ、主イエス・キリストなのだ。この方こそ、この無力な自分に、どこまで寄り添い、庇い、支えて下さる真の隣人、救い主なのだと示されるのです。そしてそのような自分でありながら、真の隣人、つまり神の御子になろうとした傲慢な罪人が自分であって、その醜い自分の罪さえ、身代わりに背負って十字架にまでついて下さったのが、主イエス・キリストなのだと、信夫はイエス・キリストの福音というものを本当に知っていくのです。
そして 信夫は洗礼を受け、尚も三堀に仕え、三堀も何とか所帯をもって落ちついていきます。そして信夫も、以前から祈っていたクリスチャン女性と結婚する事になるのですが、その結婚を控えた日、列車に乗って塩狩峠に差し掛かった時、事故に遭遇するのです。客車が機関車から離れてしまい、逆走し出したのです。信夫は、実は鉄道の事務職員であって、ハンドブレーキを必死で操作しますが、上手く効かず、このままスピードが上がれば、カーブを曲がり切れず、転覆が予想された時、何とこの信夫が、列車の前に自ら身を投げてしまうのです。列車は、信夫の上に乗りあげてようやく止まりますが、信夫は即死でありました。
これは確かに小説でありますが、しかしモデルのとなる人物がいた事がよく知られています。長野政雄というクリスチャンであって、実は小説の信夫よりも、凄い愛の人であったと言われています。三堀よりも大変な人を実際に立ち直らせていっている人物であります。
そして教会学校の校長をしていた人で、その時も訪ねた教会で子供達のためにお話し、その帰りでもあったようなのです。そして最後尾の車両で、そこにいる子供達にイエス様の話をしていたのではないかとも言われています。その最後尾の車両には、子供達や高齢者や、体の不自由な人達や、そういう人達が多く乗っていたと思われるのです。実は、逆走し出した時も、大人であれば、列車から飛び降りる事は出来たのです。しかし、小さい子供や、お年寄り、体の不自由な人達、そのような弱い人達は、それが出来ないのです。長野政雄は、そのような弱い人達の隣人になったのです。その人達のために、列車を安全に止めようと、30歳の身を投げ出したのです。
それが1909年2月28日の事であります。長野さんは日頃から、遺書を身に着けていて、それにはこう記されておりました。「余は感謝して、全てを神に献ぐ」「余は諸兄姉が余の永眠によりて天父に近づき 感謝の真義を味ははれんことを祈る」。それこそ、善きサマリア人なる主イエスに出会い、感謝に溢れて、自ら真の隣人に変えられていった聖徒の偽らざる告白であったのです。「私の隣人とは誰か」。それこそ主イエスです。この主イエスに出会っていきましょう。

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