2022年2月27日 第四聖日礼拝「神の愛と恵みがもたらす逆転」<ルカ7:36-50>中村和司牧師 

2022年2月27日 第四聖日礼拝「神の愛と恵みがもたらす逆転」          中村和司
<ルカ7:36-50> 
36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

今日、コロナ自体は、まだまだ先が見えず、新たな変異種もあったり、ウクライナも大変な事になってきております。世界情勢も混沌としています。世はまさに、確実に終末に向っていると言わざるを得ないと思います。また今や、情報戦争と言われる時代で、偽りの情報が溢れ、何が真実か本当に分からなくなってきている時代です。私達の身近でも、今や何が起こるか分からない、何が真実かも分からない、それが今日の世界ではないでしょうか。
ですから、そういう意味では暗闇なのです。どんなに見える所は華やかでも結局、神から離れた世界というのは、見えない暗闇なのであります。 そして暗闇だからこそ、人間にはいつも恐れが付きまとうのです。人間は暗闇の中で生きるようには創られていません。ですから恐れるしかないのです。あのアダムとエバが、神から離れた瞬間に、陥ってしまったのが、恐れの世界でありました。世は、恐れの世界でもあります。
そして暗闇だからこそ、どんな汚れも見えず、分からないのです。そしてそういう世の暗闇の中に潜んでいるのが、人間の偽善であり、自己中心であり、傲慢という汚れであります。しかし暗闇なので、汚れが見えず、感じもしないのです。
今日はルカ7:36以下の、長い所を読んで頂きましたが、この所から第一に、「暗闇の中の偽善」という事。第二には、「神の愛のもたらす光」。そして第三には、「神の愛による逆転」という事に心留めたいと思います。

まず第一に、「暗闇の中の偽善」という事ですが、ここには「シモン」というファリサイ派の人と、「一人の罪深い女」が、非常に対照的に登場します。「ファリサイ派」というのは、新共同訳聖書の巻末付録の用語解説にも載っていますが、当時のユダヤ教の主流派の一つで、律法に様々な解釈を加えながら、律法を自分達流に厳格に守ろうとした人達でありました。
ですから、一見立派なのです。そしてこの「一人の罪深い女」と記されているのは、恐らく売春婦か、何か世から後ろ指を指されるような類の人であって、一見ふしだらな悪い女性であったのです。しかし暗闇の世ですから、それが全てではない訳です。それは見える一面でしかないのです。やはり当時は、貧困の故に身を売られてしまったという不幸な人々もあったでしょうし、その女性の事情の全ては見えていないのです。
そしてこのシモンも、主イエスを食事に招くのですが、その持て成しは非常に形式的で、何か興味半分で主イエスを招いたようにも思えるのです。客人に対しては、その汚れた足を洗い、挨拶の接吻をし、頭に香油を塗るのが普通なのですが、何もせずに、主イエスを人前では「先生」と呼びながら、心の中では「この人が預言者であるはずがない」と、裁いているのです。
そして当時、律法の先生が招かれる場合は、どんな人も、そこに来て話を聞く事が出来ました。またこのような宴席は、中庭で行われていたため、罪深い女と言われるこの女性も、ここに紛れ込む事が出来たのです。しかし、このシモンはこの女性を明らかに蔑視していて、そういう女性に接する事自体、自らが汚れると、この女性を忌み嫌っていました。ですので、そういう女性を平気で受け入れている、主イエスに我慢ならなかったのです。
しかし、この女性はここで何一つ悪い事はしていないばかりか、シモンが主イエスにしなかった接待を補う以上に、主イエスに対する非常に美しい純粋な愛を現わしているのです。しかしこのシモンは、この女性の外側は見えていて、今の行動も見えていたでしょうが、その女性の心、またそこに現されている美しいものは、何も見えず、何も感じなかったのです。それはシモンの心が、暗闇であったからであります。
そしてそのシモンの心こそ、律法に縛られている、世の暗闇というものを表しているとも言えます。その世の暗闇では、何が大事かと言ってそれは、自分なのです。暗闇の中では、自分しか分からず、人は見えないのです。しかし暗闇の中でも、人がいる事自体は分かりますので、いつも人を恐れ、人と比べますが、自分の事しか考えられず、人を批判し、裁く事しか出来ないのです。
そして暗闇の中で、自分が触れる、自分の手の届く世界が全て、現実であって、今、何があり、何が出来、何の利益があり、何が感じられるかが、大事なのです。ですから、見かけ、見える実績、評価、感覚に囚われてしまうのです。そして結局全て自分が頼りであって、暗闇で絶大な力を持つ、武力、財力、権力という世の力を、自分が如何に持つかが重要になるのです。
世は暗闇であります。暗闇で幾ら立派であったとしても、そこには、シモンがそうであったように、偽善や汚れが満ちているのを忘れてはなりません。私も暗闇の中にあった時には、シモンと同じように、人を裁く事しかしない、自分を守る事しかしない、そういう冷たい人間でありながら、自分ほど真面目な善い人間はないと、本当に自分中心にしか、物が見えなかったです。

そして第二に、「神の愛のもたらす光」という事に目を留めたいと思いますが、このシモンと対照的なのが、この「罪深い女」でありました。
確かに、この女性は自らを決して誇る事の出来ない女性でありました。しかしこの女性は、シモンは形式的な愛しか示さなかったのに対して、この時彼女は、驚くばかりの純粋な愛を主イエスに現しているのです。37、38節「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」とあります。
その食事の席には、どんな者も集えたとようですが、しかしそれでもそこに入って行く事は、大変勇気のいる事であったと思います。自分が一番嫌われている、それもシモンの仲間が大勢いるであろう所に入って行くのです。非難されるだけでなく、嫌がらせをされる危険は十分あったでしょう。そしてそういう所に、自分の宝であったでしょう高価な香油の壺を持って、一人で出かけて行ったのです。最初から主イエスに近づいて、お注ぎしたい思いがあったようですが、うまく行くかどうかは分からなかったはずです。邪魔されたり、つまみ出されたり、香油を取り上げられる可能性さえあったのではないでしょうか。
しかしこの女性は、ただ主イエスだけを仰いで御許にいったのです。ですからこの女性には、「失敗を恐れない愛」があったのです。この女性は、恐らく今まで山ほど失敗をしてきていると思います。ですからもう失敗したくないと、本来、失敗を恐れるはずであるのです。しかし彼女の心にはどうも、失敗すればどうしようというような、自分を守ろうとするような思いが、最早ないように思われるのです。彼女の行動見る時、それは自分の計画、自分の知恵、自分の力でやっているようには思えないのです。彼女は、ただ純粋な愛に捕えられて、そうせずにおれなかったのであって、彼女にとっては成功も、失敗もなかたのです。
そしてこの女性には「人を恐れない愛」があったのです。この女性は、これまでずっと人に傷付けられてきたのです。人を恐れて当然でした。自分を蔑視する人達を避けて当然なのです。しかしこの女性は、その中に飛び込んでいったのです。この女性の目には、最早他の人など目に入ってないのです。本来、人の目ばかりを気にして、人の言葉を何より恐れて、人の機嫌を見ながら、生きてきた生活ではなかったでしょうか。しかし、この女性の心を占めていたのは、最早恐れではなく、人でもなかったのです。
そしてこの女性には「犠牲を恐れない愛」があったのです。この女性は、高価な香油を注ぎ尽くす前に、自らの涙で主イエスの足を濡らし、女性にとって何より大切な自分の髪の毛で、足を拭いていくのです。彼女の涙は、彼女の心そのものでありました。それは今まで、心の奥底に押し込められていた彼女の心の琴線から湧きだされたものでありました。彼女は、自分の真心と共に、自らそのものを献げたかったのです。それが自らの髪の毛で拭く行為となって現れたのです。もはや彼女の心には、最早自分の事や、後の事など頭にないのです。その心に溢れていたのは、ただ主イエスを慕う純粋な思いであって、恐れさえも締め出されていたのです。Ⅰヨハネ4:18に、こういう言葉があります。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」
この女性には、恐れがありませんでした、それはこの女性に本物の愛があったからです。しかしそれは元からあったのではなく、この女性も元は暗闇の中で、恐れに縛られていたのです。しかし暗闇の中にあった彼女が、本物の愛という光が差し込んできたのです。彼女も本来、自分で頑張る以外なく、世の力、一時の富、快楽を求める以外になかったのですが、頑張れば頑張るほど、落ちていき、失っていき、残ったのは、守りたい自分ではなくて、見るのも嫌な汚れた自分、ゴミのような、厄介者でしかないのが、自分であったのです。最早自分でもどうしようもなく、自暴自棄になって、自分を傷つける事しか出来ないのです。彼女に目を背けこそすれ、顧みる人などは誰もいなかったのです。
しかしそのような暗闇で呻く中に、差し込んできた光が、主イエスとその御言葉であったのです。当時、同じように罪人として蔑視されていたのが、徴税人であって、その徴税人であったマタイを主イエスが弟子にされた時、マタイが、他の多くの徴税人や罪人と言われる人達と一緒に、主イエスを招いて宴席を開いたのです。その町が、ここと同じ町と思われるのです。ですから、その宴席に、この女性もいたのではないかと思われるのです。しかし、この時もファリサイ派の人達がいて、主イエスは非難されたのですが、主はその席で、彼らにこう言われているのです。ルカ5:31.32
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
この女性は、生まれて初めて聞いたんです。どんなに健全でなく、人生に病んで、罪人と呼ばれるしかないどん底の者でも、だからこそ医者が必要なんだ。あなたも医者が必要な、癒されなければならない、大切な存在なのだというのです。そして、医者の所に来るのには、ありのまま、あなたのままでいいのだ、というのです。「医者である私には、そのままのあなたが必要なのだ。そしてあなたではない、私が、あなたを癒し、健全にするのだ、私はあなたのためにこそ、あるのだ」。 主イエスはそう言われたいのです。
この女性は、生まれて初めて聞いた驚くべき言葉に、世界がひっくり返っていったのです。こんな私だけれど生きていてよかった、神様は生きておられる、この方こそ救い主なんだと、この女性の、全てを失って何もない心に、主イエスの愛が満ち溢れていったのです。

第三に目を留めたいのは、そのような「神の愛による逆転」です。世の中的には、シモンが立派で、この女性は最低でありました。しかし、それは世の暗闇の中での事なのです。暗闇の中では、真実は分からないのです。真実を知るには、世には無い神様からの光が必要であるのです。
主イエスは、なお暗闇の中にいるシモンに、「あなたに言いたいことがある」と41節からの例えを話されます。それは五百デナリオンと五十デナリオン、今で言えば500万と50万の借金を抱えた二人の話でありました。そして、二人とも借金を払えない中に、貸主は憐れに思い、二人の借金を全て帳消しにしてくれるのですが、それでどちらが貸主を愛するだろうか、というのです。そしてシモンは当然、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と言うのですが、その「帳消し」という事が重要でありました。「帳消し」というのは、凄い事なのですが、何故帳消しにして貰えたのか、という事です。
シモンや多くの人は、五百か五十かの額に拘り、自分は五十の借金でしかないが、その女性は五百も借金があると、勝手に決めつけて、比較していたかもしれません。しかし、その女性が五百で、シモンが五十と言われている訳ではないです。要は額の差ではなく、両者とも出来なかった事、無力であった事が言われているのです。まさに帳消しにされた理由はたった一つ、「二人には返す金がなかったので」という事なのです。つまりここでは、出来ない、無力という事こそ重要であったのです。返って五十より、五百の、より無力な方に価値があるのです。ですから、この帳消しという驚くべき恵みの前には、借金をしている者の取るに足りない己が力こそ、邪魔であって、自分を傲慢にさせ、盲目にさせているのです。
この「帳消し」と訳されているギリシャ語の語源は、「恵み」であります。それもそれは、やがての主イエスの十字架の愛によってもたらされる恵みでありました。神の御子が、魂の医者として、罪人の全てを、あるがままに受け入れて下さり、それを背負って身代わりに、ご自身を十字架に犠牲にされたのです。そしてその故にこそ、全ての負い目、罪が帳消しされるばかりか、御子がご自身の命を、無条件に一方的に注いで下さったのです。
ここに驚くべき愛の光があるのですが、これは神ご自身が愛以外でない、完全な愛そのものなる方であるからであります。その愛が、主イエスにある完全な恵みを、暗闇の世にもたらしたのです。人間の世界に、恵みは逆転をもたらします。何故なら人間がどこまでも自分に寄り頼み、世のものを求め、暗闇の中で虚栄に走れば走るほど、見かけは華やかであっても、この恵みに背を向け、御子の愛を踏みにじる事になるからです。
神の愛と恵みの前に、人間は全ての誇りを捨てなければなりません。自分が寄り頼んでいる世の力や、自分の正しさという邪魔ものを手放す必要があるのです。この女性は、何も出来ない、最も無力な、否定しかされてこなかった人でありましたが、主イエスの言葉に触れて、主が受け入れて下さるならと、自らを最も価値無き罪人、裁かれて当然の者として、自らを主の愛に委ねたのです。
ですから彼女には最早恐れはないのです。そればかりか、彼女の心に溢れた主の御愛が、彼女を突き動かしていったのです。その女性を見て主が言われたのが、47節「赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」と言う事でありました」。己が何かに寄り頼むではなく、自分を罪人として丸ごと、主の恵みに委ねる中に、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(ローマ5:20)とあるように、赦しの恵みが満ち溢れ、それ故にこそ、神の愛がこの女性に溢れていったのです。シモンは、己が力に寄り頼んだ故に、赦しを失い、益々暗闇に陥りました。しかしこの女性は無力さの故に主に心開き、赦しの愛が溢れて、益々輝いていったのです。
私は高校生の時には、礼拝に行ったり行かなかったりしながらも、自分は真面目なクリスチャンだと思っていました。しかし一緒に教会に行っていた平田君というのは悪いやつで、教会の帰りに喫茶店で煙草吸うは、その内眉毛もそって、金髪パンチパーマになるわ。不良道をまっしぐらで、やがて教会にも来なくなりました。私は、もうあいつは教会にも帰って来ない。あいつはもうダメだ、と見捨てていたのですが、お母さんがクリスチャンで、必死で祈っていたんです。
彼は結局どん底まで落ちたようですが、その平田君が教会に帰ってきたんです。それも人間これだけ変わる事があり得るのかと思うぐらい、顔つきがもう変わっていました。イエス様で、はち切れているような感じなのです。たまたま彼の誕生日が近かったので、祝ってあげようとしたら、自分のことなんかより、イエス様を祝いたくて仕方ないんだというのです。そして彼は友達という友達に、イエス様の事を伝え出したんです。そして救われる友達が起こされ、彼は献身して牧師になっていったのです。
私は、自分は真面目なクリスチャンだと思っていましたが、本物のクリスチャンを見たような気がしました。それで私も求めだしたのです。そしてやがて知ったんです。私も全く変わらないどうにもならない罪びとだったのです。そして私も十字架の前に、自らを投げ出す事しか出来なくなって、罪びとそのものとして、ただ主イエスを仰いだんです。その時、この自分自身に染み付いた罪が帳消しされて、心の内側から新しくされて全てが変わってきたんです。そしてただ主イエス様が平安の源になって、この私も献身して牧師になったのです。
暗闇の中で、自分や人、世を見ていても、真実は分かりません。主イエスの十字架こそ神様の光です。十字架は、世では敗北であり、呪い、最悪でしかないのです。しかしそこに神様の愛と恵みの泉があるのです。
今週、3月2日は、灰の水曜日と言われ、主イエスの復活を記念するイースターの46日前になります。何故46日かというと、その間に6回の聖日があるのでそれを除くと、丁度40日間になるのです。40というのは聖書では試みの数と言われ、イスラエルが荒野を放浪したのが40年間、主イエスはサタンの誘惑を受ける時に40日の断食をされました。ですので、その40日間、主の御復活を前に、主イエスの十字架を特別に覚える期間として、受難節、レントまた四旬節とも言われます。そしてその初日が灰の水曜日と言われ、中世の頃よりカトリック教会を中心に額に灰で十字を記し、イースターまで主の十字架を偲びつつ、克己、節制を心掛けたと言われるのです。
このレント、受難節を迎えるに当たり、私達は主イエスの十字架の前に遜り、主の御言葉に心開き、自らや世の自己中心的な心の暗闇に、主イエスの愛の光を照らして頂きましょう。そして自らの心の暗闇を認めて、主イエスの無条件の愛を、私の心を明るくし、照らす光として、心の隅々に受け入れていきましょう。

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