2021年12月12日 待降節第三主日礼拝「クリスマスが訪れるところ」 中村和司牧師
<ルカ2:1-14>
1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
いよいよ来週には、クリスマス礼拝を迎え、ボーマン先生ご夫妻をお迎えします。先生は来週は、イザヤ9章から話されますので、この朝、ルカの2章を開いておきたいと思います。毎年、開かれる所だとは思いますが、この所から今朝は、神の御子は、どのような所に来られたのか。クリスマスはどのような中に齎されたのか、という事を覚えたいと思います。
主イエスは第一に、居場所のない疎外された中にお出でになりました。第二に、光を失った暗闇の中に来られ、そして第三に、喜びを失った抑圧の中に、主はお出でになられたと言ってよいと思います。
第一に主イエスは、居場所のない疎外された中にお出でになりました。
7節に「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」とあります。人口調査でごった返す宿屋に泊まれないほど、マリア達が貧しかったという事ですが、ナザレから来た田舎者が疎外されたという面もあるかもしれません。いずれにしても「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」というのは、何かとても象徴的に感じられます。そして人間の罪が齎した深刻な問題の一つが、この居場所を失うという事ではないかと思います。
アダムとエバは、神から離れた時にエデンの園を追われ、神の御許という居場所を失ってしまいました。それ以来、人間は自己中心の殻に籠るようになって、お互いに疎外し合うようになったのです。人間は自分の居場所を失う事を恐れ、しがみ付きますが、結局人間の罪が、居場所を失わせてしまうのです
人間と言うのは、自分が本当の自分でおれる、安心できる、平安の中に自分を喜べる、そういう自分の居場所というものが、どうしても必要なのです。
その一番身近な所が、本来家庭という所であろうかと思います。しかし、その家庭でさえ居場所を失うというのが、今日の現実であるのです。家庭が崩壊し、痛み、心傷付いた子供達は、将来に渡って自分の居場所を見出すのに苦労するのではないでしょうか。そして今や社会自体が、家庭を追い詰めてしまっているのではないかとも思います。学校において、職場において、地域において、別に物理的に場所が無い訳でなくても、心に壁が出来てしまう、心が開けない、打ち解けない、人で溢れているのだけれど、その中で疎外感を感じてしまう。そういう中でいつしか居場所を失ってしまい、孤立してしまう。そういう痛みが、社会の片隅に蔓延してしまっているのが今日ではないでしょうか。
何故、夜の歓楽街に人が溢れるのか。お酒、ギャンブル、快楽、今日では、パソコンのゲーム、バーチャルの世界もです。コロナも追い打ちをかけて、結局人々はどんどん孤立の世界に流れ込んでいっています。しかし、そこが本当に人間の居場所なのか。誰にも理解されず、慰められる事も喜び合う事もなく、一人涙にくれるために、生まれてきたのか。何故、普通の大人しいと思われていた人が、自暴自棄になり、どうせ死ぬならと、他者を巻き添えに凶悪犯罪に走るのか。それこそ自分の本当の居場所というものを失い、見捨てられていると感じ、絶望するからではないでしょうか。
醜いアヒルの子は、本当の親の自分の居場所に戻るまでは、決して幸せにはなれなかったと思います。私はかつて夢で、自分の故郷に一生懸命に帰ろうとするのですが、中々辿り着けない、あるべきものが無かったり、途方にくれる中に、目が覚めるという事がよくありました。人間には、受け入れられ、必要とされ、喜ばれる、そういう本当の自分の居場所というものが、必要なのです。そしてそれが本来あるのです。
創世記2:7,8に、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。」とあります。愛をもって人間を形作られた方は、愛をもって人間を、ご自身の造られた園、ご自身の御許に置かれたんです。神様は、居場所をも創られているのです。そしてエバを創られ、家庭を創られました。つまり、人間には、全ての関係、世の全ての居場所より先に、もっと根本的な居場所、関係というものがあるという事なのです。それが神との関係であり、神の御許という居場所です。
ダビデは、家族の中でも末っ子で、一人羊飼いをさせられ、そしてサウル王に仕えるようになってからは、命を狙われ、家庭を追われ、国を追われ、まさに居場所を失って、逃げ隠れしなければなりませんでした。しかしダビデは詩編16編で語っています。
2「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。6 測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
ダビデは、主ご自身を嗣業の地、つまり自らの居場所としたのです。主の御前、そここそ憩いの地であり、ダビデ自身が満たされ、守られ、生かされる所であり、主の御前で主御自身を自らの幸いと思う事が出来たのです。クリスチャンであっても、いつしか世に流される中に、自らの本当の居場所、主の御許である私の居るべき所から離れてしまっている事がないでしょうか
パウロは、Ⅰコリント7:17以下で、周囲や社会の情況に流される事無く、どこまでもただ主の御前に留まっていなさい、と語っています。そこでは奴隷の問題も取り上げられているのですが、新共同訳は、奴隷から自由になれるとしても、むしろそのままでいなさいと、そのようにも訳せるのですが驚くべき訳を取っています。それほどまでに、主の御前にこそ留まりなさいというのです。
そして主イエスは、そのような自らの本当の居場所を失った私達に、本当に寄り添うため、そして世の何ものでもなく、ご自身を私達の居場所とするために、自ら居場所のない中に、自らを誕生させて下さったのです。
第二に主は、光を失った暗闇の中に来て下さいました。
8,9節にこうあります。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」。大きめの石を持ち上げると、暗い中にいた虫達が、驚き惑って塵尻に逃げていきます。羊飼い達は、確かに夜も仕事する訳ですが、彼らは、当時の世の暗黒の底辺に押し込まれ、暗闇の中に生きざるを得なかった存在と言えるのではないかと思います。彼らは、羊と共に生活し、仕事柄、律法を守れないのです。恐らくまともな教育も受けていなかったのではないかと思います。羊の事はわかっても、世の中のルールや情報は中々分からない。山野を移動する中で、どうも人のものも自分のものとしてしまう事も多かったようで、嘘つきの代名詞とさえ言われ、信用されず、軽蔑されていたのが、羊飼い達でありました。羊と共に、ただ毎日同じ生活を繰り返すだけで、何も分からず、先も見えず、何の希望もない、そういう暗闇の中にいたのが彼らでありました。
彼らは、突然の天使の光に、非常に恐れたとあります。つまり彼らは、神々しい光などとは全く無縁の暗闇の生活が、常であったのです。今の世は、人間の作った人口の光は溢れていて、見える所は華やかです。新宿などでは、至る所にイケメンと言われる青年たちのポスターを見ますが、私のようなおじさんには、皆造られた同じ顔に見えてしまいます。要するにテレビ番組でも、やたら出演者は皆明るそうですが、その心がどうなのだろうと思ってしまうのです。その心が暗くないか、という事です。
私もかつて暗い心で喘いでいました。心が暗いと、どうして明るい所を避けてしまいます。浮いてしまうのを恐れるんです。そして余計に自分の殻に籠ってします。そしてそこでまた恐れるんです。闇と言うのは、恐れの世界です。また、閉ざされた世界です。それこそ孤独の世界なんです。先日、淀橋のある姉妹の救いの証しを聞きましたが、以前は何て自分はだめなんだろうと、毎晩のように泣いていた、と語っておられたのが心に残りました。世の暗闇の中で、どれだけの人達が涙に暮れている事でしょうか。恐れても、涙しても、何も分からず、何も変わらないです。それが暗闇です。
そしてまた暗闇は、罪の温床です。世の暗闇がそうです。闇の中で、物が腐敗していくように、光の中では出来得ない悪が、闇の中で公然と行われているのです。罪というのは闇そのものですから、罪が残っている限り、どんなに偽の光を作っても闇は去らないのです。暗闇自体には、闇をどうする事もできないのです。
しかし光自体が差し込んで来るなら、闇は光に打ち勝てないのです。闇は消え去るしかないんです。どんなに小さくても本物の光は、闇を駆逐していきます。しかし羊飼い達を照らしたのは、小さい灯ではなく、眩いばかりの主の栄光の光であったのです。更に続いて天使の大軍が現れ、賛美の大合唱が始まったのです。その時、彼らの世界は一変した事だと思います。光が齎されるなら、世界は一変します。世界が輝きだします。そのために主イエスは来て下さいました。ヨハネ1:9にこうあります。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。それが主イエス様であります。「すべての人を照らす」とあります。どんなに世の光の届かない、暗黒の片隅に追いやられていても、全ての人を照らすのが、光なる主ご自身だというのです。
先程の姉妹は、救われてイザヤ60:19、20が大好きになったといいます。「主があなたのとこしえの光となり/あなたの神があなたの輝きとなられる。 あなたの太陽は再び沈むことなく/あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり/あなたの嘆きの日々は終わる」。「あなたの嘆きの日々は終わる」。最早闇の中で嘆き呻く事は無いというのです。そのために主は来て下さいました。
そして第三に主は、喜びを失った抑圧された中にこそ来て下さって、私達に永遠の喜びを齎して下さる方であります。10~12節にこうあります。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
羊飼い達も、抑圧されていましたが、当時、イスラエルの民全体が、抑圧された中にありました。1節に「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」とあります。ローマ帝国の支配が始まったのです。何故の住民登録かといって、重税と労役、兵役です。ユダヤ人は兵役は免除されていたようですが、異邦人による支配は、屈辱的であるばかりか、彼らには、ユダヤでの税や神殿税もあったでしょうし、何より律法の枷という重荷が、民を縛っていたのです。イスラエルの民は、本来奴隷から解放された民であったはずですが、結局、罪の故に苦難の歴史を辿り続け、尚も抑圧の中に縛られていたのです。
人間は、重荷に圧し潰され、また縛られていく時に、生きてはいても、喜びは失われ、その命は萎えていってしまうのです。かつて木の苗を植えた時に、風に倒れないように、紐でフェンスに結び付けたのですが、紐を外すのを忘れてしまい、やがてその木は縛られたまま、紐がどんどん幹に食い込んでしまい、結局、その木は折れてしまいました
現代人は、ローマ帝国は無くても、世の帝国の奴隷にされていないでしょうか。こうしなければならない、そうあってはならない、あれでなければならない。人を見ては、世を見ては、自分を見ては、世の重荷に押し潰され、人の顔色、人の機嫌、人の言葉に縛られ、様々な人間関係に縛られ、会社のため、お家のため、地位名誉世間体のため、世の兵役に駆り出され、目的も、意味も分からず、お金のため、出世のための日々の労役に縛られ、いつしか逃げ込んだお酒、ギャンブル、快楽、ゲーム等に依存して奴隷になってしまう。そして、心からの喜びとは全く無縁の人生になってしまうのです。
私はそこまでは、という人も、この世に生きていて、世の抑圧を一度も受けなかったと人は、一人もいないのではないかと思います。そしてどのような抑圧も、心を蝕んでいき、やがて生きる喜びを失わせてしまうものです。
主イエスの寝かされた飼い葉桶は、宿屋の家畜小屋の餌箱でありました。当時の状況に詳しいバークレーという人は、「この地の旅行者のための宿泊設備は、お話にならないほど原始的であって、長屋風に立てられた馬屋で、共同で使用される中庭と筒抜けになっていた。旅行者はそれぞれ食料を携帯し、宿屋の主人が用意するものといえば、家畜のまぐさと料理のための薪くらいのものだった。町は混んでいて、ヨセフとマリアには部屋が無く、マリアの子が生まれたのは、共通の中庭であった」と記しています。また当時、洞窟なども家畜小屋として多く使われていたので、そういう所ではないかとも言われています。いずれにせよそこは、大切な待望の赤ちゃんを出産するような所ではなかったのです。その頃も赤ちゃんの誕生は本来、村中が祝う、非常に大切にされたお祝い事でありました。
ですから、家畜の餌箱に赤ちゃんが寝かされるような事は、本来なかった事かと思います。実際、ヨセフ、マリア達にとって、それは強いられた旅であって、旅先で出産する予定では全くなかったのです。ですから6節は、「ところが」から始まっているのです。世の圧力、抑圧の故に、飼葉桶に赤ちゃんを寝かせざるを得なくなったのです。まさに「飼い葉桶の乳飲み子」は、抑圧の中に生まれた赤ちゃんと言えるのではないかと思います。
しかし、その赤ちゃんこそが救い主だというのです。そしてその「飼い葉桶の乳飲み子」こそがしるしだというのです。つまりその乳飲み子こそ、人間のあらゆる抑圧のために献げられた乳飲み子であったのです。結局、人間が神の愛の許を離れて以来、人間の罪が人間を抑圧し、人間を奴隷にしてしまっているのです。その奴隷から、私達を贖うため、買い戻すために、その只中に献げられたのが、この乳飲み子であって、人となられた神の御子であったのです。
先程のバークレーという人が更にこう言っています。「宿に部屋がなかったという事は、イエスにとって象徴的な出来事であった。イエスのために部屋があるとすれば、それは十字架しかなかった」と言っています。神様には、抑圧などはありません。しかしただ私達の故に、私達への愛に抑圧されて、神ご自身がその愛に縛られたのです。
救い主の預言を多くしたイザヤと同時代の預言者にホセアがいますが、彼はこう記しています。ホセア11:4ですが、「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き/彼らの顎から軛を取り去り/身をかがめて食べさせた。」とあります。イスラエルの民は、軛に縛られ引かれていく家畜のように、罪に縛られ抑圧されていたのですが、神様ご自身が身をかがめて、その軛を外して、愛の絆をもって、導かれたというのです。更にホセア11:8、9にこうあります。「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」。そしてそのホセア11:1には、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」とあります。
母親が、我が子の苦悩を我が苦悩とするように、抑圧と滅びに縛られている我が子なる民に、神ご自身が縛られ、憐みに胸やかれ、ご自身を投げ出されたのです。そして、ご自身の御子の十字架をもって民を贖い、愛の絆をもってしっかり抱くために御子を遣わされたのです。それが「飼い葉桶の乳飲み子」でありました。その乳飲み子こそ、私達に献げられ、私達を抱かれる神の愛の証しでありました。
ダビデは、先ほどの詩16:9、11でこう言っています。「9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます」。
ダビデは大変な抑圧と死の危険にさらされていたと言えますが、しかし主の御愛に抱かれ、共にいて下さる主に御顔を仰ぐ中に、最早死をも恐れず、永遠の喜びに満ち溢れますと告白せざるを得なかったのです。その何があっても奪われない永遠の喜びを齎すために、主は来て下さったのです。
この来て下さった主ご自身を、私達の居場所とさせて頂き、あらゆる闇、抑圧から解き放たれて、主の光と御愛と喜びに抱かれる神の子であらせて頂きましょう。