2022年7月3日 礼拝「命を献げた開拓者」使徒7:48-8:1 中村和司師

<使徒7:48-8:1>
7:48 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。49 『主は言われる。「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。50 これらはすべて、/わたしの手が造ったものではないか。」』51 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。53 天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」
54 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。55 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。57 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、58 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。59 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。60 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
8:1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。

使徒達による愛の従順の中に、初代教会は起こって来た迫害をものともせずに前進していきますが、困難と世との戦い自体は、益々激しさを増していき、初めての殉教者が出る事態になっていきます。これは初代教会にとっては、大変な痛みでありました。しかし、このような痛み、犠牲を通して、神様はいつも新しい神の御業を開かれて行かれるのです。そういう意味では、このような殉教者達こそ、神の御業の開拓者といってよいかもしれません。
今日は、最初の殉教者となったステファノに目を向けたいと思います。このステファノは、膨れ上がってきた大勢の弟子達の具体的な世話をする執事、信徒役員として選ばれた7人の内の一人でした。これら7名は、使徒6:1にある「ギリシャ語を話すユダヤ人」であって、地方出身者か地方と関係の深い人達と思われます。ですから異邦人社会の中で、律法に対しても比較的自由な意識で、しかも信徒であるので、元々エルサレム教会の決して中核者という訳ではなかったと思います。
しかしそのような存在であっても、このステファノは、信仰と聖霊と恵みに満たされて、教会の内外において生き生きと大胆に福音を力強く証しし、神様の新しい御業をもたらしていたのです。使徒6:5を見ますと、ステファノは「信仰と聖霊に満ちている人」であり、更に6:8を見ますと「恵みと力に満ち」た人であると記されています。
しかしそのような律法には緩やかな「ギリシャ語を使うユダヤ人」の中でも、逆に律法に厳格に拘ろうとする人達もいて、そういうユダヤ人達から、ステファノは激しく迫害されるのです。そして律法学者達や民衆を扇動して、ステファノを捕え、偽証をして、最高議会で裁判にかけるのです。今日は、このステファノに目を向けながら、第一に「開拓者と信仰」、第二には「開拓者と聖霊」、そして第三には「開拓者と恵み」、ということについて心を留めたいと願っております。

まず第一に、「開拓者と信仰」という事ですが、ステファノは信仰に満ちた人でありました。ステファノは、そのように周囲のユダヤ人から酷い仕打ちを受けますが、彼は目の前の敵や現実を見るよりも、絶えず神様に目向ける信仰を持っていました。
6:15を見ると、裁判席に一人立たされたステファノは、恐れるどころか、「その顔はさながら天使の顔のように見えた」とあります。天使は常に神の御顔を仰いでいる存在ですが、ステファノは人々の前に立たせられながらも、ステファノ自身は神の御前に立っていたのです。
そして7:2からのステファノの弁明も、自己弁明など一切せずに、「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。」と語り掛けながら、「栄光の神が」と、何より神様についてから語り始めるのです。そして、人々に石打ちの刑で殺される最後まで、ステファノは、天を見つめ続け、主イエスを仰ぎ続けるのです。
ステファノの信仰の目は、常に開かれていました。それはステファノの心と耳が、神に対して常に開かれていたからであります。ステファノの長い説教とも言える弁明の、最後の結論部で彼は、51節「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち」と逆に人々に迫っています。「割礼」というのは、男性の生殖器を覆っている包皮の先端を切除する儀式ですが、これには「覆っているものが取り除かれて開かれる」という意味があります。
元々アブラハムの時代、アブラハムが神を信じ切れずに、世の方法に頼って跡継ぎを儲けてしまった時に、神様がアブラハムに現れ、「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」(創17:1)と言われたのです。そしてその時に、わたしがあなたを多くの国民の父とし、子孫を増やし、あなたがの神となる故、その契約のしるしとして、割礼を受けなさいと神様が言われたのです。つまり、わたしが御業をするから、あなたはわたしに絶えず開かれた心をもって、わたしの前に歩みなさい。そしてその事をいつも覚えるために割礼を受けなさいという事なのです。
そしてユダヤ人達は、代々割礼を受けて、それを神の民のしるしとしていたのですが、肝心の心は神様に開かれていませんでした。耳も開かれておらず、彼らの心や耳が開かれていたのは、世に対してでしかなかったのです。ステファノは、その長い弁明で、結局人間という者が如何に世に流されて来たか、そしてイスラエルの12部族の族長たちは、弟ヨセフを妬んで殺そうとした訳で、彼らの心が如何に歪んでいたか。そしてエジプトで奴隷にされながら、モーセによって解放されるのですが、その心は如何に自己中心と欲の奴隷のままであったか。結局、民の心こそが偶像に走ってしまって、律法と神殿を汚してきた、という事を語るのです。そして、結論のように思わず人々に対して、「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち」と諭すように語り掛けたのです。
先週の淀橋での弾圧記念聖会で思わされましたが、迫害の中で、ホーリネスの純粋な先生方は信仰を貫いていきつつも、結局、多くの教会、牧師は世に流されて、分裂し、己が思いに仕えてしまったのです。
「受難は受けたが、抵抗した訳ではなかったのだ」と語っておられましたが、決して間違いを正そうとした訳ではないのです。自分達は無害で、決して政府に逆らう存在ではないと、牧師達は言葉を濁しつつ無実を主張したのです。特高警察の方が、かえって聖書的に信仰を捕えていたとも言われます。世の現実の只中で、如何に人間が弱く、素直でない「かたくな」な者かという事です。「かたくな」というギリシャ語は、「首が固まる」という意味の言葉ですが、首が固まってしまって、最早素直に神様を見上げられなくなるのです。
神の民であるためには、心と耳に割礼を受ける、つかり心と耳が開かれていなかればならないのです。人間が神様から離れて以来、人間の見える現実は常に困難の連続なのです。しかしその中でこそ、心が開かれなければならないのです。心を覆っているものが除かれなければならないのです。そして耳を覆っているものが除かれ、神様の御声が聞かれ、その心に神様が触れて頂かなければならないのです。その時に、何ものにも妨げられずに、何があっても神様を仰ぐことが出来、信仰の世界が開かれてくるのです。

第二には「開拓者と聖霊」という事ですが、ステファノは聖霊に満ちている人でありました。そして51節では、「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち」と語った後に、「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。」と語っていくのです。ステファノは、人々を糾弾しているようで、人々に悔改めを迫って、主の救いへと招いているのです。そして「いつも聖霊に逆らっています」と語りながら、「今も聖霊が働かれているのだ」、だから聖霊の働きに心開くようにと招いているのです。
ここの結論部でステファノは、実は最も彼らの気に障る事を語っているのです。ステファノはここで、最高議会のエリート達という、つまり割礼を誇り、自分達は神の民であり、神に仕え、律法をしっかり守っていると誇っている人達に対して、「あなた達は本当の割礼を受けていない、神に逆らっている、神が遣わした者を裏切り殺した、律法を守っていない」と、彼らの誇り、プライドというものを、容赦なく砕いていっているのです。
ですから54節で、「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした」とあります。「激しく怒り」とは、新改訳では「はらわたが煮え返る思いで」となってますが、要するに「切れた」のです。ステファノは、恐らくこれさえ言わなければ、殉教せずに済んだかもしれません。しかしこれは聖霊が、ステファノを通して言わしめたとも言えるのです。つまり彼らが救われるためには、どうしても彼らの誇り、プライドが砕かれなければならなかったのです。
ステファノは、51節の直前、49~50節で旧約を引用して、『主は言われる。「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。50 これらはすべて、/わたしの手が造ったものではないか。」』と言っていますが、これはイザヤ66:1~2の言葉で、実はこのイザヤ66:2には続きの部分があって、その続きには「わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。」とあるのです。
ですから49節の最後に「わたしの憩う場所はどこにあるのか。」とありますが、それは人間が造った神殿というより、それこそ「苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人」の心が、神様の憩いの場所なのだという事が本来言われているのです。ダビデも語っています、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」(詩編51:19)。
私達は、苦しむ事を嫌います。しかし苦しむ中でこそ、プライドは取り去られ、私達の心は砕かれるのです。そしてその時、覆いも除かれ、心も耳も開かれて、御言葉の前に本当に遜る事が出来るのです。
私も、神様の愛が分かるようになり、心が癒されてきて、信仰が確かになってこようとする時、この御言葉が与えられました。献身する前であり、神学校にもまだ行っていませんでしたが、その御言葉が私の聖書信仰の土台となっていきました。
そして、ステファノは更に52節で、「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。」と言っています。ここでは、民が結局、預言者達に逆らい続け、預言者達が来られると預言した「正しい人」こそキリストなのですが、そのキリストご自身に民は逆らって、十字架に付けてしまったと言っているのです。
つまりステファノが何を語りたいかといって、それこそキリストの十字架であります。結局どんな人であれ、砕かれる必要があり、砕かれた心、開かれた心と耳をもって主を仰ぎ、十字架を仰ぐ必要があるのです。かつて彼らは他人事のようにしか主の十字架を覚えなかったのです。
十字架自体は、皆知っているのです。キリスト者達は、当然その意味も知っているのです。しかし頭で十字架を知っているだけでは、神の御業は始まらないのです。何より砕かれた柔らかい心、開かれた心を持って十字架を仰ぐ事、自らの罪に気付いて、十字架を仰ぐ事、これが大切なのです。
私達は如何でしょう。キリストの十字架を頭だけで知っていたり、他人事のように知っていても、神の御業は現されません。自らの傲慢さ、自らの頑なさ、自らの自己中心を知って、キリストを十字架に付けたのは、結局この心であって、その心を私も持っているのだと気づく事、これが大切なのです。そして聖霊こそ、それに気付かせようと働いているのです。そして気付いて砕かれた心で十字架を仰ぐなら、それこそ聖霊が十字架上で成し遂げられた神の救いの御業を悟らせ、聖霊ご自身が私達の心に満ち溢れ、最早何にも縛られる事なく自由に私達の内で働かれて、まさに御霊の御業が開かれていくのです。

第三に「開拓者と恵み」、ということについて心を留めたいと思います。ステファノは恵みに満ちた人でありました。つまりイエス・キリストで満たされていたのです。私達にとって神様の恵みとは、主イエスご自身であります。ステファノは信仰に満たされ、絶えず主を仰いでいく事が出来ました。しかしそれだけではなく、聖霊に満たされて天を仰ぐ中に、55,56節こうあります。
「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、 『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。」とあります。
ステファノは、開かれた天を見ることが出来たのです。世の人でさえ、困った時の神頼みと、天を仰ぐ事はあるかもしれません。しかし天を仰いで、開かれた天を見ることが出来るのは、ステファノが信仰と聖霊に満たされていたからであります。私達は困難の中に道を拓こうとします。閉ざされた門があるなら、それを開こうとするでしょう。そして私達は、必死で頑張って自分の力で、天を開こうとするのです。つまり物事が、自分の思い通りになるように、天を開いて、天を動かそうとするのです。しかしどんなに頑張っても、肉の力で天が開かれることはありません。
しかし私達が、主イエスにある信頼と聖霊に与って、天を仰ぐ時に、既に開かれた天を仰ぐ事が出来るのです。それは主イエスご自身によって開かれている天であって、この世にあって、どんなに祝福への門戸が閉ざされ、困難と災いに取り囲まれていたとしても、常にどんな中にも開かれている天であるのです。
ステファノにとっては、今や絶体絶命であって、天が開かれようと、今、具体的に救出の道が開かれなくては、どうにもならないはずなのです。しかしステファノは、それで十分であったのです。実際、救出の道は開かれなかったのです。しかし開かれた天を仰ぐことが出来、そこに主イエスを仰ぐことが出来た時、ステファノは主の恵みで満たされていったのです。
それもステファノは、神の右に立っておられる主イエスを仰ぐことが出来たのです。これは非常に特別なことでありました。マルコ16:19にはこうあります。「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」。右の座に着かれたとは、つまり座られたという事であります。しかしここで主は立ち上がっておられるのです。敵の前に立たせられているステファノと共にあるかのように立ち上がられ、そして尚も全権を支配なさっておられる主として立ち上がられ、大祭司が御前に立って祈るように執り成し手として、立ち上がられたのかもしれません。
そしてステファノのそのような言葉に、人々は57節、「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり」とあります。まさに彼らは、心と耳に割礼を受けておらず、つまり傲慢と自己中心で、その心も耳をも塞いでしまっていて、世の思いで満たされて、ステファノを虐殺しようとしたのです。
石打の刑というものがあったのですが、人の頭ほどの石を皆で投げつけて虐殺するのです。一個でも当たれば大怪我で、骨も砕かれ、体も潰されていきます。そのような恐ろしい処刑の只中、人々の手が大石を投げつけている間、ステファノは主イエスを仰いで、59節「主イエスよ、わたしの霊を御手にお取りください」と、自らを主イエスの御手に託していくのです。目には目を、歯には歯を、暴力の手に、復讐の手を伸べたくなるのが私達ですが、しかし主イエスの恵みに満たされていたステファノは、暴力の手に、主イエスの十字架の御手で応えるべく、自らを主の御手に委ねていくのです。
そして主イエスご自身に満たされる中に、最後60節、「『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。」とあります。激痛で息絶え絶えの中、彼は「大声で叫んだ」とあります。彼は最後の力を、必死で振り絞ったのです。何のためですか。相手を呪うためでしょうか。そうではなく、相手を赦し、救うためです。主イエスの恵みを相手に分けるためです。ステファノが、主の恵みに満たされていたからです。
著者のルカは、ここでステファノが死んだとはとても書けなかったのです。「ステファノはこう言って、眠りについた。」と記されています。ダビデは、「あなたの恵みは、いのちにもまさる」(詩63:3新改訳)と言っていますが、主イエスの十字架によってもたらされた恵みには、主イエスを復活させた神の永遠の愛が溢れているのです。そして確かに、ステファノ自身は暫く眠りについて、地上でその姿を見る事は出来ない事でしょう。しかし実際ステファノに溢れていた恵みは、彼の死で留められ、それで終わった訳ではなかったのです。
このステファノ殉教の場面に、サウロという人が登場するのです。この人は、最高議会に身をおく人物で、ステファノの処刑に加担している人であるばかりか、これから起こる、教会への大迫害の首謀者ともいえる人物でありました。彼は、主の弟子達を投獄し、処刑して、彼らを一掃する事を、生きがいにしているかのような人物で、あいつさえいなければと、当時の弟子達全てに恐れられていた人物でありました。ですから、このサウロが神に裁かれる可能性はあっても、救われる事などない、この人物がやがて大伝道者になるなどとは、誰も夢にも思わなかったのです。ですから恐らく、このサウロの魔の手を止めて下さい、裁いて下さいと祈る人はあっても、サウロのために執り成す人は、誰一人いなかったのではないかと思います
しかし敢えていうなら、たった一人だけこのサウロのために祈った人があったと言えるのです。このサウロは、このステファノが「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈った、「彼ら」の内の一人なのです。ステファノは、これからの活躍を大いに期待されながらも、これからという時に、その短い生涯を閉じる事になります。何でこんな事にと誰もが思ったのです。しかし、そのステファノの祈りは聞かれ、そのステファノに溢れていた恵みは無駄にならず、その恵み受け継いでいったのが、サウロ、後のパウロであったのです。実は、サウロの心には、このステファノの姿が焼き付いていたのです。そしてやがて彼は、復活の主イエスに出会い、この主イエスの恵みが全世界に届けていき、世界宣教の恵みが拓かれていくのです。
心の覆いが除かれていく事です。その心と耳が開かれ、信じる心が開かれていく事です。そして聖霊によって砕かれた、遜った心をもって主の十字架を仰いでいく事です。神ご自身の御業が開かれて行きます。そして、主ご自身の恵みに満たされていく時に、どのような中にあっても主ご自身に満たされて、開かれた天を目指して進んで行くことが出来ることに感謝しましょう。
以前にお話した事がありますが、韓国にチョン・クンモという、子供の頃から天才で、科学技術庁の長官に二度就任し、IAEA国際原子力機関の議長にもなった事もある、超優秀な方がおられます。ある時、長男が重い慢性腎臓炎である事が分かるんです。チョンさんは、この息子のために、本当に神を求めるようになって教会に通い出します。しかし息子さんは悪くなる一方で、チョンさんの腎臓の一つを移植したりもします。しかし、良くはならず、息子は鬱病まで煩い、二回も自殺を図るのです。
チョンさんは人間の無力さを痛感させられ、神様は何故このような試練をと、いよいよ神様を求めていったのです。そしてある聖会に出ていた時、神の恵みに圧倒されると共に、神様の御声を聞いたそうです。
「私がどんなにお前を愛しているか知っているか。お前のために十字架を背負っている、お前の息子に一度でもお前は感謝した事があるか」と、神様が言われたというのです。チョンさんは答えたそうです。「どうして私が息子に感謝するのですか。私達にこんなに苦しみを負わせていて、私が助け、私の腎臓まで与えているのですよ、息子が問題なのです」。しかし神様が言われたそうです。「お前は自分が優秀だと思っているが、お前は、本当の喜びや永遠の命の希望を与える事が出来たか。今日のお前があるのは、息子の故なのだ、息子に感謝しなさい」。
その時チョンさんは、本当に砕かれて、目が開かれ、今まで厄介な荷物と思っていたこの息子がいたからこそ、神を信じるようになり、家族も救われ、道を誤らずに来れたのだ。私が何かしたのでない。全ては恵みであって、息子が私の代わりに苦しんでくれていたのだ。全てはただただ感謝なのだ。そう思うとチョンさんは、泣けて泣けて、そして今まで重荷だと思っていた息子に心から赦しを乞うたそうです。自分の傲慢が砕かれて、神様の恵みに心が開かれた時、この人も主イエスの御跡に従う人となっていったのです。心と耳が開かれて、主を仰ぐことです。

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