2022年7月10日 礼拝「敵も味方と変える愛と恵み」使徒9:1-19b 中村和司師

<使徒9:1-19b>
1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、2 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。8 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。9 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
10 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。11 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。12 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」13 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。14 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。16 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、19 食事をして元気を取り戻した。

 日本も、最早かつての日本ではなくなって来ていると皆さんも感じられておられるのではないでしょうか。元首相の銃撃や先の見えない様々な世の現実に、私達は不安を覚えざるを得ないのではないかと思います。そもそも私達は、本当に目先の事、目に映る事しか分かりませんので、どうしても、自分の経験、自分の常識という眼鏡でしか、物事を見れない者であります。特に、過去に傷付いた、痛んだ経験などがあると、どうしても、恐れと不安の色眼鏡しか物事を見れません。そして人間というものは、どうしても自己中心にしか物事を見れない弱さ、罪深さがあります。ですから、どうしても目の前の現実で一喜一憂してしまうのです。
しかし私達は、目の前の現実だけが全てではない事を覚えなければなりません。私達が見えるのは、ほんの物事の表向きの一面でしかないのです。物事、世界を動かしているのは、霊の世界であって、私達が生かされているのは、神様の愛と恵みの世界である事を、私達は忘れてはならないと思います。
今日の所に、迫害者サウロが登場しますが、サウロの故に、弟子達は震え上がった事だと思います。しかし、その迫害者サウロが全く変えられてしまうのです。それは、弟子達も、サウロ自身も全く予想できない、全く考えられない事であったのです。人間の目には見えなくても、「今や恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント6:2)とありますが、どのような厳しい現実であったとしても、今や私達を覆っているのは、神様の愛と恵みの世界であるのです。
今日は、このサウロの回心の出来事から、第一に「何故拒むか、愛と恵み」、第二に「既に成就した愛と恵み」、第三に「選びの器に溢れる愛と恵み」という事を覚えたいと思います。

まず第一に「何故拒むか、愛と恵み」という事ですが、主イエスの最初の、サウロへの語り掛けが、4節「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」というものであったのです。
このサウロという人は、先週のステファノの殉教の所で初めて登場します。トルコ南東部のタルソス出身のユダヤ人で厳格な律法の教育を受け、主イエスより若干若かったと思われますが、元々主イエスと面識があったかどうかはわかりません。
しかし、主イエスが十字架にかけられた事で、実は律法に「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである」(申21:23)とあるのですが、彼は木にかけられるような者がメシアであるはずがない、そのような偽メシアを信じる一派は、神の冒涜者達だと決めつけ、真面目故に徹底的に撲滅しようとするのです。
1,2節にこうあります。「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」。口語訳では、「なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら」となっていますが、元々の熱血漢かもしれません。その容赦なく投獄し、処刑しようとするその激しさが、弟子達を震え上がらせていたようです。
サウロは、エルサレム中の弟子達を恐怖に陥れ、逃げて行った弟子達をも捕まえようと、ダマスコにまで手を伸ばそうとしていたのです。ダマスコは、ガリラヤ湖の北東の交通の要所で、ユダヤ人達も沢山おり、弟子達も多く潜んでいたようです。
そしてそのサウロの魔の手が、まさにダマスコの弟子達にも襲い掛かろうとしていたその時、3節「突然、天からの光が、彼らの周りを照らした」とあります。余りの強烈な光であった故に、サウロは地に倒れた、とあります。そして倒れる中に、復活の主イエスの御声を聞くのです。それが「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」というものでありました。
この言葉は、彼のやっている事を考えるならば、世の常識では考えられないことでした。両者は、敵対し合っているのです。しかし、主イエスのその呼びかけは、敵対者へのものでは決してなかったのです。「なぜ、わたしを迫害するのか」。それは単なる和解の申し出ではありません。そこには何も条件はつけられておらず、主イエスは既に一方的にサウロを受入れておられるのです。主イエスは、サウロを一言も責めず、議論もせず、何を求めてもいないのです。そこにあるのは、ただサウロへの無条件の憐み、慈しみだけであったのです。
サウロは律法の世界に生きる人間で、律法を守らない者は呪われた者、だから十字架のメシアを仰ぐキリスト者も呪われた者、呪われた者を裁くのは当然と、そのような因果応報の世界でいきり立っていたのがサウロでした。そのサウロに、無条件の愛という天来の圧倒的な愛の光が臨んだのです。
サウロは訳が分からなくなって、思わず「主よ、あなたはどなたですか」と問います。既にサウロも、相手を敵とは見なしてはいません。最早敵とは思えなかったのです。そしてサウロは、自分の生きてきた律法の世界、自分を頼りに自分の力で生きていくような、自分に縛られた世界とは、全く別の世界があることに気付くのです。
それこそ神様の無条件の愛と恵みの世界でありました。元々人間は、この神様の愛と恵みによって創られながら、神に背を向けて、自分を頼りに自分中心の世界に生きるようになってしまったのです。神様は、そのような人間が自分の姿を知って、神の許に帰ってくるように、律法をユダヤ人に与えたのですが、人間の罪は律法を隠れ蓑にして返って、自分中心になっていったのです。
そのような人間は、今日も戦争が絶えないですが、本来とっくの昔に滅ぼされて当然でありました。しかし、人類が今日も尚滅びずに保たれているのは、ひとえにこの神の愛と恵みの故なのです。その証拠に、この迫害者サウロの上にも、神の愛と恵みが注がれたのです。サウロが特別であったのではありません。あえて言うなら特別悪かったサウロに、憐みの故に、神の愛と恵みが特別に注がれたのです。そのような神の愛と恵みが、今日も私達を覆っているのです。その事を、私達も知らなければなりません。
もしかしたら私達の身近にも、こんな人いるべきでない、何でこんな人がいるの、この人がいなければと思うような、出来れば自分の世界から排除したいと思うような存在がいるかもしれません。しかし弟子達は、サウロをそのように思い、そしてまさにサウロは、そのようにキリスト者達を思って、良い事をしようと排斥していたところ、「なぜ、わたしを迫害するのか」と御声を聞いたのです。ですからあなたが排除したいその人も、神の愛と恵みの中にある存在であって、そこに神がおられるかもしれないのです。もしかするとあなたも、「なぜ、わたしを迫害するのか」という御声を聞くようになるかもしれません。
要するに、私達はこの神様の愛と恵みの世界を知らないのです。人の心の内側も、過去も、見えない現実も、何も知らないのです。ですから私達は、自分の思いだけで人を裁き、排除してはならないのです。そして、神は様々な人を私達の周りに置きながら、私達を、神様の愛と恵みの世界に招いておられる事を覚えなければなりません。

第二に「既に成就した愛と恵み」という事を覚えたいと思います。主イエスは、サウロの「主よ、あなたはどなたですか」という問いかけに対して、5,6節「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」と語られます。原文では、私という言葉が強調されながら、「このわたしこそ、あなたが迫害しているイエスなのだ」と、言われているのです。サウロは、弟子達を迫害していたのであって、主イエスに直接手を出していた訳ではないのですが、わたしが弟子達の只中に生きているのだ、わたしこそ十字架から復活したイエスであると、ご自分を現わしておられるのです。
サウロにとっては本来、敵の親玉が圧倒的な力をもって、自分に報復にきたと思うところあったのですが、サウロはそう感じなかったのです。「あなたが迫害している」と主は言われましたが、そこにサウロの価値観、情熱、人生があったのです。しかしサウロは、その自らの全てを包み込んでいる主として、死をも超えたメシアとして、そして驚くべきの愛と恵みの神として、主イエスがご自身を、現しておられると感じたのです。あなたが何をしようが、あなたがどうあれ、どのような存在であれ、わたしは十字架から復活して今も生きている、愛と恵みのあなた主である、とサウロにはそう聞こえたのではないかと思うのです。
実際、主イエスはこれによって、サウロの人生が変わる事を知っておられました。ですから「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」(6節)と言われたのです。サウロは、神の御心を成し遂げようと必死で頑張って、弟子達を迫害していたのですが、結局自分は神に逆らう事しか出来ずに、自分こそ滅びるばかりであったのです。しかしそのような自分を、主ご自身が憐れんで下さり、近づいて下さり、止めて下さり、そして私の全てを受入れて、ご自身をメシアとして現して下さっている、サウロは、そう示されたのだと思います。
彼が、主イエスの十字架の意味をすべて悟るまでには、もう少し時を要したかもしれません。しかしサウロは最早この時、自分というものには寄り頼めなかったのです。それは、必死で頑張ってきた自分の業と自分の誇りというものが、既に木っ端微塵に吹き飛んでしまっていたからです。そして、そのような自分を無条件で受入れ、抱いて下さる本当のメシアに出会い、ただそのメシアの恵みと愛によって生かされる平安を、生まれて初めてこの時経験したのです。
自分の力で御心を成し遂げようと頑張る中では、怒りや妬みや痛みに翻弄されてばかりいたサウロでした。しかし、神が既に全てを成し遂げておられる、救い主メシアが死に、全てに勝利して、生きておられる、その事実がサウロの心を平安で満たしていったのです。
そして「あなたのなすべきことが知らされる」と主は言われましたが、自分の人生は最早失敗し、取り返しがつかないと思ったところが、新しい人生が備えられているというのです。それこそ、神の愛と恵みが備え、計画した人生でありました。神様は私達一人一人にも、そのような人生を備えておってくださいます。
ですからこそ、もし私達が自らの計画に拘って、しがみ付き、神様の御計画に逆らってばかりいるなら、私達こそ神のご計画の迫害者と言えるかもしれません。サウロ自身は、自分は良い事をしていて、神に仕えていると思っていたのです。しかし、人間が自分というものを頼りに頑張っている限り、神の恵みと愛の迫害者になってしまっていたのです。
私の祖父はクリスチャンでしたが、晩年、自分の計画は何一つ上手く行かなった、と語っていました。しかしその祖父の愛唱聖句の一つが、詩編119:68「あなたは善なる方、すべてを善とする方」という、その時は口語訳で「あなたは善にして善を行われます。」という御言葉でありました。そして祖母を天に送り、一人ホームに入る頃には、そのような中でも口癖が、「感謝、感謝、なお感謝」というものであったのです。
大切なことは、主の十字架の許に額ずくことです。自分の何かに頼るのではなくて、全てを成し遂げて下さっている主イエスの十字架を仰いで、全てを委ねていく事です。その時、主の無条件の愛と恵みが、私達の心と人生を主の平安で満たしていくのです。

第三に「選びの器に溢れる愛と恵み」という事を覚えたいと思います。
サウロはこのあと三日間、目が見えなくなり、飲まず食わずで、祈り続ける事になります。サウロは、今までの世界に決別する必要がありました。例え目が見えたとしても彼は、自ら目を閉じ祈ったのではないかと思います。祈らずにはおれなかったのです。
時に私達は、このように祈りに集中する必要があります。目に見える世界を全てとせずに、神様の愛と恵みの世界に生きるためです。主イエスでさえ、地上におられたかつては、祈りによって導かれ、ゲツセマネで祈って十字架に向われたのです。
そして祈る中に、神が働かれるのです。主は、ダマスコにいるアナニヤという忠実な弟子にご自身を現され、サウロに遣わそうとします。しかし、このアナニヤでさえためらうほどサウロは恐れられ、その悪事は知られていたのです。しかしそれでも主は言われます。15節「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」。
主イエスが、このサウロを「わたしの選んだ器」と言われたのです。本来、役に立たない捨てられるべき器であり、敢えて言うなら「憐みの器」なのですが、主イエスは、彼こそ「わたしの選んだ器」なのだと言われたのです。
「神の選び」とは、世の選びとは逆であります。世では優れた者を選びます。しかしサウロ、後のパウロ自身がⅠコリント1:26―28で語っています。
「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」。
そしてそのⅠコリントの15:9では、「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」と語っています。そして更に続いてこう言っています。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」(同15:10)
自分に寄り頼み、自分を誇る者には、神様の愛と恵みの世界は分からず、神の御業も現れ得ないのです。ただ神様の恵みのみに満たされ、立っていく者を通してこそ、神の恵みの御業は現されていくのです。
主イエスは続いてアナニヤに、16節でこう言っておられます。「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」。ここを見る時私達は、神様はサウロを働かせ、苦難を通らせる事によって、サウロに裁きを下されたのではないかと思うかもしれません。しかしそうではないのです。この「苦しみ」というのは、恵みによって与えられる「愛の苦しみ」であったのです。
パウロは、Ⅰコリント9:16、17でこう言っています。「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです」。
サウロは、地の塵に等しい自分のような者が受けた恵みと主の御愛を覚える時に、もう自分の事などどうでも良くなって、主のためなら何でもやらざるを得ない、それが喜びとなるほど、主の恵みと愛に圧倒されたのです。この「わたしは不幸なのです」というのは、この主の恵みと愛に応えないようなら、わたしこそ禍、呪われた存在、最早わたしは生きていられない、いない方がいい、というような意味なのです。
かつては力で人を縛っていたサウロですが、これからは主の御愛と恵みに縛られて、主のために、主の福音を伝えるために、苦しむ事さえ喜びとなるという事であります。
そしてそのように神の恵みと愛に支配され、その神のために用いられる器として、実は世の始まる前から、全てをご存知である主イエスが選ばれた器が、サウロであったのです。しかしそれは、自動的にそうなる運命として、定められているという事ではありません。この神の恵みと愛に、どう心開くか、委ねるか次第なのです。
しかし主イエスは、アナニヤをサウロに遣わすに当たり語っています。11節「今、彼は祈っている」。あの怒りに燃えたサウロが、今や砕かれて、祈り続けている。主の御前に遜って、心から主を仰ぎ求めている。祈って、私に自らを委ねようとしている。そのように彼が祈り続け、私を求め続け、私に委ね続ける限り、何があろうが、起ころうが、私の選びの器として、私の恵みと愛はどこまでも彼の内に溢れていくのだ、と主イエスは語られたいのです。
私達は何も出来ない者です。しかし祈る事はできます。確かに弱く、何も分からない愚かな者で、罪深い者です。しかしだからこそ、祈る必要があるのです。そして祈りというのは決して難しいものではありません。サウロは三日間祈ったといっても、彼自身は何も出来なくて、ただ神様の御前に出て、神を仰ぎ続けただけではなかったかと思います。恐らく言葉も出て来なかったでしょう。神様に心を向けて、心を開く事、自らの心を注ぐ事、それが祈りです。私が何も出来なくても、私自身は元々無力なのです。しかしそのように祈っている限り、神ご自身が働かれるのです。そして主がそれを喜ばれるのです。それは、私達を覆っているものが、神様の愛と恵みであるからです。にも拘らず、自分の世界に閉じ籠り、己が力にしがみ付いてしまうので、思い煩い、平安を失ってしまうのです。

ジョージ・ミューラーという人は、子供頃から親の金を盗み取る手癖の悪い人間で、親の金や人の金、様々なものに手を出しながら、警察に捕まった事もある非常に世俗的な人間でありました。親は敬虔なクリスチャンという訳ではないのですが、安定な生活をさせようと、聖職者を目指させます。本人は時に改めようとはしますが、盗みと飲酒と放蕩の生活は変わらなかったのです。
そういうミューラーが、友達に誘われて小さな家庭集会に出てみた時、そこで牧師でも何でもないのですが、そこのクリスチャン達の跪いて祈る敬虔な姿、そして生ける神の臨在を思わせるような心からの祈りに触れる時に、今まで彼が身を浸していた世の快楽では、決して得られない喜びと平安を覚える事が出来たのです。そしてその日以来、ミューラーの人生は変わり、この人こそ祈りによって、生ける神を証しする偉大な聖徒になっていったのです。何もない所から、ただ祈りによって5つの孤児院を設立し、1万人の孤児を養い、数億もの献金を与えられたのです。死ぬまでに与えられた祈りの特別な答えは5万に上ると言われています。そして「信じられないなら、この働きを見なさい」と言われ、「この生涯を知って、なお神の実在、祈りの力、見えない世界とこれに連なる人の心について疑う人は、どんな出来事を見ても信じることができない人であろう」と言われたのです。
神は今も生きておられ、独り子を給う愛と恵みを注いで下さっています。己が思いで、この主を拒まない事です。心開いて信頼するなら、既に主イエスの愛と恵みが、生き働いて包んで下さっていることを知るのです。そしてこの神様に心を向け、祈り続けるなら、私達の人生に主の愛と恵みの御計画が溢れていくのです。

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