12月19日クリスマス礼拝「王が来られる」ベアンテ・ボーマン師 <イザヤ9:5-6>

12月19日クリスマス礼拝「王が来られる」ベアンテ・ボーマン師
<イザヤ9:5-6>
5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。6 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

メリークリスマス!
アドベントクランツのロウソクに4本の火が灯りました。スウェーデンでも同じ習慣があります。メッセージの前に、ヘンデルの「ああ感謝せん」を演奏します。これはヘンデルの晩年の作で、ヘンデルといえば、メサイアなどが有名ですが、バッハと同じ年にドイツに共に生まれています。しかしヘンデルは、バッハには会ってはいないと思います。ヘンデルはイギリスに渡り、そこで人気を博し有名になります。彼はオペラ作家でもあり、自分のオペラカンパニーを持つまでになります。しかし50歳になって色んな問題が起き、病気になります。そしてそのオペラカンパニーが倒産し、多額の借金を背負ってしまい、大変落胆する中にありました。そのような中に友人の牧師が聖書の箇所を持ってきて、ここを元に作曲して欲しいと言われ、それで彼がメサイアを作るのです。そしてその後、様々なオラトリオを作り、その中にこの「ああ感謝せん」が入っています。彼は、約束の地に向け旅するイスラエルの民が、モーセと共に様々な試練困難を越えて導かれていく、その聖書の物語を覚えながら、私の人生もそのように導かれてきたと、感謝をもってこの曲を作ったと言われます。
(演奏)
音楽界の中でも、このヘンデルのメサイアは非常に素晴らしい作品と言え、何百年とこの曲は愛されてきました。しかしその背景には興味深いものがあります。何故ならこの曲は、人生の困難な中で生まれて来たからです。彼は最早引退をして退こうと思っていた時であったのです。借金の故に刑務所に入らなければならないかもしれないという覚悟まで彼はしていました。悪い状況の中で、友人の牧師が聖書の御言葉だけを彼に与えて、曲を作って欲しいと頼んだのです。彼自身は仕事を止めようと思っていた所であったのです。しかし彼はこれを作曲するに当たり、新しい力が与えられたのです。そして24日間でこの曲が仕上がるのです。この楽譜は、260頁にも及ぶもので、全曲を演奏するには3時間ほどかかるものです。そのような大曲を24日間で書き上げるという事は、驚くべき事です。私が写譜しようとしても24日間では出来ないと思われるのに、彼はそれを仕上げたのです。ヘンデルに考えられないような事が起こったのです。彼は家から出ませんでした。お手伝いさんが食事を運びますが、それには殆ど手が付けられていなかったそうです。友人が訪ねて来たそうですが、ヘンデルが泣いている姿を見たそうです。そして彼が「天が開けた」と言っていたそうです。ですから、まさにこの曲は、神からの力を与えられて、ヘンデルが作った曲と言えるのです。彼は、自分は肉体のままであったか、或いは肉体を離れてであった分からないような中で、神に導かれて私はこの曲を、とにかく書いたのだというのです。パウロも第二コリントの中で第三の天にまで引き上げられた経験を語り、肉体のままであったか、肉体を離れてであったか分からないと語っています。メサイアの中心的な曲は、ハレルヤコーラスになります。そのような曲を書いている時にお手伝いさんが入ってきました。その時彼は、「私の目の前に天が開けている。全てが見える。」などと言い、「神ご自身が、おられる」というような事も言っていたそうです。ハレルヤコーラスというと、「ハレルヤ、ハレルヤ」とハレルヤが何度も歌われていると思われるかもしれません。しかし、その間に重要な事が言われているのです。ヘンデルは実は、「王の王、永久の王、ハレルヤ」と書き、「彼の統治は、永遠から永遠まで。ハレルヤ」と書いているのです。これはヘンデルの曲ですが、このハレルヤの所になると、神への畏敬を覚えて起立するという事が習慣的になされています。

先程イザヤを読んで頂きました。これは非常に古い言葉です。今から2700年前、主イエスが生まれる700年前に書かれた言葉です。そして、幼子についての預言が記されています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」。これだけであるなら、どの幼子にも言えます。しかし「権威が彼の肩にある。」というのです。そして「驚くべき指導者」とあります。英語では「素晴らしい助言者」とあります。そして「力ある神」とあるのです。何とこの幼子が、神であると宣言されているのです。今年を、私達は2021年と西暦で数えます。これは何を基準に数えているかというと、キリストの降誕です。私達は、AD2021年と言いますが、このADはラテン語の「アンノドミニ」、「主の年」という意味で、主の降誕を記念しています。そしてその以前、紀元前はBCで表しています。これは英語で「ビフォアクライスト」、「キリスト以前」という意味なのです。つまり、キリストの降誕によって、時は二つに分けられたのです。それは全能の神が。人となって、地上に降誕されたからです。主イエスは、イザヤ書のこの預言を成就されました。主イエスの御降誕の情況を見ますと、普通では考えられない事が沢山起こりました。主イエスがマリヤに宿る前に、御使いがマリアに現れ、赤ちゃんを産む事を預言したのです。そして、神が人となって誕生される事も、既に預言されたのです。しかし、どのように誕生するかというと、マリアは処女であったのです。処女が子を産むという事は、当時考えられない事でありました。実際、不可能です。御使いは、ヨセフとの関係の中で、子を宿すと言ったのではないのです。神からの霊、聖霊によって子を宿すのであって、ヨセフとの関係ではないという事が言われているのです。そして、主イエスが誕生される際にも御使いが現れます。この誕生の際には、超自然的な出来事が数々起こっているのです。
そして6節、「ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。」とあり、これは永遠の権威というものが永遠にずっと続く事が言われています。そして興味深い言葉の中に、「ダビデの王座」という言葉が出てきます。しかし「ダビデの王座」とありますが、どうしてそのような事があり得るのかという事です。ダビデは、王としていつ君臨していたのでしょう。主イエスが生まれる1000年前にいた人です。そして既に3000年前にダビデは亡くなっているのです。何故、「ダビデの王座」と書かれているかといって、それが大事な意味を持っているからではないでしょうか。神様は、ダビデにとても大切な約束をされました。Ⅱサムエル7章ですが、神様はダビデの子孫がずっと続いて、王座を継承していく者が永久まで続くのだ、と約束されたのです。イスラエルの歴史を見るなら、ダビデの子孫は、ソロモンに始まって、ずっと続くのですが、やがてのメシアは、ダビデの王座にお付きなるとイザヤは言われたのです。
そして新約をみますと、マタイ1:1では、「ダビデの子」と言われています。ダビデは1000年前に死んでいるのに、何故「ダビデの子」と言えるのか。ここにダビデと主イエスとの関係を見る事が出来ます。マタイ1章を見ると、主イエスの系図という事で、ダビデとの関係というものが明らかにされています。
主イエスは、王として預言されていたのです。ヘンデルは「王の王」と、歌ったのです。そして預言者も「王の王」と記したのです。主イエスは、人として肉体をもって来られた時、宮殿で生まれたのではありません。彼は貧しい一般の夫婦の間に生まれた子として、貧しい家畜小屋で生まれたのです。しかしやがて主イエスが、エルサレムに入城する時には、ロバに乗って王として入場するのです。ローマから解放して下さるに違いにないと人々は考えて、主イエスを迎えた訳です。それは当時、ローマの支配下にあったからです。そして主イエスは、興味深い事にベツレヘムでお生まれになった訳ですが、それはローマに税金を払うために登録をしなければならなかったからです。主イエスがお生まれになるこの時は、王としてお生まれになる情況ではありませんでした。
しかしやがて、主イエスを王としたいという願いが、人々の間に起こったのです。しかし主イエスは、静かな所に退かれ、ご自分はそのような王として来られたのではない事を示しておられたのです。主イエスは、政治家として、国のリーダーとして来られたのではなかったのです。勿論、主イエスは不思議な力を持っておられましたから、このイスラエルをローマから解放して、イスラエルの王となる事も出来たでしょう。しかし主イエスは、「わたしの国は、この世に属するものではない」と言われたのです。目には見えませんが、霊的な王国を主イエスは確立されたのです。人間としての王は、寿命がありますから、いつまでも続く訳ではありません。国というものも、色々な状況が起こって国として続かない事がある訳です。ヨーロッパを見るなら、色々と民族で崩壊しています。
それでは、どのように永遠の国を確立できるか、という事です。この永遠の国というのは、イエス・キリストによって立てられたものであると、聖書ははっきり語っています。ダビデに与えられた預言を、主イエスは成就されたのです。私達が主イエスを信じたならば、神の国に属する者とされるという事を聖書は語っています。私達は永遠の国に属する者として生きているのです。聖書は私達が主イエスを信じたならば、王の王たる主イエスに属する者、そして永遠に朽ちる事のない国に属する者として、今生きているのだという事です。
しかしながら、主イエスの死というものを見ます時に、そこには王として亡くなられた姿はありません。主イエスは十字架に御自身を献げて、殺されたのです。十字架にかけられたのです。十字架の刑というのは、人が考える最も悲惨な過酷な刑であります。最後の息を引き取るまで、十字架の上で何日もかかるという事もある訳です。主イエスの場合は半日でありました。主イエスの生涯の最後というものには、勝利というものは一切見られません。素晴らしい考えをもって、素晴らしい方であったにも拘らず、最後はどうしようもない大敗北であったのです。
しかし既に旧約聖書において、メシアの死というものは語られているのです。イザヤ書53章の記事を見ますと、本当にそこに十字架につけられた主イエスの姿が見られるのです。十字架の刑というものが、どのようなものであるのかという事が説明されているのです。しかしながらイザヤ53章には、十字架という言葉はありません。何故ならユダヤ人には、十字架の刑というものは持っていなかったからです。これはローマの死刑のやり方なのです。主イエスが十字架で殺される700年前に、十字架の刑というものがどういうものなのか、十字架という言葉は出てきませんが、メシアがどのような死に方をするかという事を、既に700年前に預言されているという事はものすごい事です。更にそれ以前にも聖書には書かれています。1000年前には詩編22編の中にダビデが、メシアが死に留まっている事はないという事まで預言しています。殺される訳ですが、死は彼を止めておく事は出来ないと言われたのです。という事は、旧約においては十字架という言葉は出てきませんが、十字架の刑、十字架の死、復活というものが預言されていたのです。そしてそれは預言通り成就しました。主イエスは十字架で殺されました。何故なのかと、皆さん不思議がるかもしれません。バプテスマのヨハネが、主イエスを見た時に、「世の罪を取り除く神の小羊」というように主イエスの事を言われたのです。主イエスは、神の小羊と言われました。旧約聖書の中を見ますと、罪が許されるために羊が献げられる、そのような事がずっとなされてきた訳です。
日本の漢字一つに、福音が凝縮されています。義という漢字があります。どのように書くでしょうか。我の上に羊が載っているのです。そして我という字を見ますと、手には剣があるのです。この義という漢字が意味する事は何でしょうか。羊が献げられる事で、義ということが与えられるということは、仏教にもありません。神道にもありません。漢字は中国から来たと言われるかもしれません。それでは儒教では、そのことを教えているかといいますと、教えていないのです。それでは、どのようにして福音が凝縮された漢字を説明できるのか、それは聖書によらなければ説明出来ないのです。
神の小羊であるところの主イエスが私達の罪を全て取り除いて下さる、私達の汚れた邪悪な良心でさえ聖められると、ヘブライ書は語っているのです。宗教の問題は、主イエスなしに自分の力で善い人になろう、義人になろうとするのが宗教なのです。しかし聖書は、自分の力でしようとしても無理だと語っているのです。何故かといいますと、心から聖くないからだというのです。私達の邪悪な良心は、十字架の血によって、恵みによって聖められるのだ、また御霊によって聖められるのだということを聖書は語るのです。ですから、恵みによって私達は救われ、そして十字架の血によって聖められのです。これは人間の努力ではないので、キリスト教というように、宗教の一つと考えるのは好きではありません。そうではないのです。キリストご自身なのです。私達はキリストに従う者であって、キリスト教ではないのです。
私達は全能なる神に従うものなのです。私達は、「素晴らしい助言者」に従うのです。「平和の君」に従うのです。過去にある頭脳の優れた方の哲学にとらわれるのではないのです。私達は、難しい騙しごとの哲学の囚われ人にならないようにと、パウロはコロサイ書で語っています。私達が信じている神は全能者なのです。罪から贖うことの出来る唯一の神なのです。永遠の命の希望も与えて下さる方なのです。
主イエスは、墓に収められました。その墓の入口は、大きな石で塞がれました。その石を動かすためには、力ある男性20人がかからなければならないほどの大きな石であるという事が言われています。私はイスラエルに行って、その墓がどのようなものであるかを見ました。山のところに掘られた穴のような所に、スロープを使ってゴロゴロと石が転がされていき、穴を塞ぐのです。ですから誰かが行って簡単に石を動かして、死体を盗むというような事は不可能なのです。何故かというと、そこにローマの兵士達が見張りとして立てられていたのです。何故でしょう。主イエスが自分は三日目に甦ると言われていたからです。生きていて殺されるけれど、三日目に甦る、などと言える人が誰がいるでしょうか。神以外にそのような事を断言する事はできません。そして主イエスは、言っておらた通り死から甦られたのです。人に甦り、復活というものを与える事が出来るのは、主イエス以外にないと確信出来ます。それは主イエスご自身が、死と復活をもって証明されたからです。
聖書はそれ以上の事も語っています。私達は唯物的な目に見る世界の中で、目に見えるものによって生きている訳です。しかし聖書は、目に見えるものが全てだと語っていません。そこには目に見えない力が働いていると聖書は語るのです。主イエスは、この地にあって働かれるに当たって悪霊との戦いがありました。人々の生活、人々の背後で、その人自身が他の人と違うというような時、それは悪霊の影響もあるという事を主イエスは教えておられるのです。そして、人の力では考えられないような魔術を使う方々もおられます。しかし主イエスは悪霊に憑かれている人達を正常にもどすために悪霊を追い出すというような事もされました。私は神を信じています。しかし一方で、悪魔がいるという事も信じています。私達が見ている背後に悪魔の力が働いているという事も知っています。エフェソ6章の中を見ますと、そこに空中の権威を持つ者、そして支配者など、悪霊達の事が語られています。
私達は信じられないような犯罪が起こるという事も私達は目にする訳です。何度かニュースの中で聞いた事があります。「あなたはどうしてこのような事をしたのですか」と尋ねたところ、「私は声を聞いたんだ」という犯罪者がいたというのです。どこからの声であったのでしょうか。単に精神的な病で片付けられない事があるのです。私は精神的な病というものも信じていますが、しかし時には、目には見えない神の力ではない、悪霊の力に支配されている人々がいるという事も思うのです。しかし、主イエスは悪魔に勝利されました。それがエフェソ書に書かれている訳です。
目には見えない神の力ではない力に対して、主イエスは完全に勝利を収められたのです。それがエフェソ書1:20~22に書かれてあります。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」。
ローマの総督であったピラトは、十字架のイエス様の上に一つの看板を書きました。「ナザレのイエス、ユダの王」と書いたのです。という事は、死ぬ時も王として認められていたという事なのです。このエフェソ書の先程の言葉を見ますと、全ての悪しき力の上に主イエスは勝利されているということを私達は知る事が出来るのではないでしょうか。
多くの人達は、呪いというものに恐れを持ちます。私は小さい子供の頃、友達と一緒に街を歩いていた時、丸いマンホールの上を踏んだのです。そうしたらいきなり私の友達が、ポンポンと私を叩くので何をしているのかと尋ねると、私があなたの呪いを解かしたのだというのです。このような丸いものを踏むと呪いが来るそうなのです。そう言われて私はそれが本当なのかと考えていましたが、念のために丸いマンホールを踏まないようになり、そのような不安が私の内に生まれるようになったのです。そしてその後に、聖書、ガラテヤ3章を読むなら私達は呪いから解放されていると事が書かれているのです。今私は丸いマンホールなど気にせず歩いています。悪しき者の力が私に触れる事は出来ないと、Ⅰコリント5章も言っていますが、そのような信仰を持っているからです。
そしてよく山もよく登るのですが、山小屋で寝る時には、人々は頭の向きを気にするのです。死人と同じ方向、北枕にするのはよくないというのです。世の中では、言い伝えとか迷信に人々が支配されているという事が多々あるのではないでしょうか。本当に自由になっていない人が多いのではないでしょうか。恐れによって私達の人生が導かれてしまう、恐れによって物事を決断してしまうという事があり得るのではないでしょうか。血液型で人の事を決めようとしたり、科学的でない迷信や言い伝えによって人々が支配されているという事が多々あるのではないでしょうか。しかし、それらのものに主は勝利されたのです。
私は悪の力に恐れを持つ必要はないという、恐れないで生きるというところに主が導いて下さっているのです。何故なら、私達はキリストと共に天上の座に着かせて下さっているとエフェソ書は言っているからです。私達は、どんな力の上にもキリストにあって、その上をいっている者達なのだと聖書は語るのです。私の人生に神の力が働いて下さる。クリスチャンの人生には神の力が働くのです。本当に主を褒め称えましょう。私達は、キリストにあって本当の意味での自由というものが与えられているのです。そしてある人達は、教会にいったなら、あんな事こんな事をしてはいけない、こうしなければならないと重荷がかかってくるのではないかと多くの人達は考えます。スウェーデンで有名なのは、ノーベル賞でしょう。そしてボブディランさんが、ノーベル賞をお取りになったという事は驚きであった事だと思います。ロック歌手がノーベル賞を頂くという事は興味深い事です。恐らくノーベル賞の歴史の中では初めての事ではないかと思います。しかし私は彼の歌詞を読んでみました。非常に鋭く、興味深いです。そしてそこには必ずメッセージがあるのです。実は彼はクリスチャンになりました。彼は有名なので教会で洗礼をあげる訳にはいかず、パットブーンの家の庭のプールで洗礼式をしたそうです。そして彼はクリスチャンになってCDを作りました。福音の電車というCDです。その中にある一つの歌は、あなたは誰かに仕えているのですよ、というメッセージでした。もしかするとあなたは、イギリスやフランスの大使であるかもしれません。またあなたは、ギャンブルが好きかもしれないし、ダンスが好きかもしれません。またあなたは、重量挙げの世界チャンピオンかもしれません。真珠の首飾りをして歩き回っているような人かもしれません。しかしそうであっても、あなたは誰かに仕えているのです。あなたは悪魔に仕えているか、神に仕えているかのどちらかなのです、というのです。そして彼は、世界中で様々な人達に、この事を語っています。そして色んな人の事を語りますけれど、その間々に、あなたは誰かに仕えているのです、という事を何度も語っているのです。あなたが誰であろうと関係ない、あなたは誰かに仕えている、囚われているという事を言われたのです。
人は普通、自分は自由に生きていると考えがちです。しかし聖書は、そうは言っていません。ローマ書を見ますと、あなたは義の奴隷として生きているのか、罪の奴隷として生きているのか、どちらかしかないと言われているのです。その間はないのです。光の神に従って光の中を歩んでいるのか、それとも悪魔に従って闇の中を歩んでいるのか、どちらかしかないと言っているのです。何故クリスマスには、こんなに光が灯されるのでしょうか。闇の中に、常に光があるように、私達、罪を抱えた闇の中を歩んでいる人間に、光が灯ったのです。主イエスがパウロに語ったように、闇から光に、悪魔の支配から神に立ち帰るようにと、パウロは召されたのですが、私達は闇の王国に仕えるのではなくて、永久までも統治される王の王であるキリストに仕え、そして永遠の命の中で生きているのです。それ故に私達はいつもクリスマスを祝っているのです。王の王が、肉体を取られ人として来られたのです。アーメン

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