2022年3月13日 第二聖日礼拝「必要なことはただ一つ」 中村和司
<ルカ10:38-42>
38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。
今日は、北京パラリンピックの最終日であるようですが、かつて東京オリンピックの時に、「おもてなし」という言葉がはやりました。日本語には、「接待」という言葉もありますが、この「おもてなし」というのは、単なる接待ではない訳です。それは、心を尽くした接待、歓迎という事だと思います。それも相手が心地よく過ごせるように、お仕えするという意味があると思います。
しかし、この「おもてなし」の英語は、serviceでなくて、hospitalityという言葉になります。そして、このホスピタリティという言葉は、ラテン語のhospes(客人の保護者)という言葉から派生していて、昔、旅に出かけるのは、だいたい巡礼の旅だったようで、旅人が巡礼の旅の途中で、空腹や喉の渇きを覚えたり、疲労や病気を患った時に、現地の人たちが旅人に愛の手を差し伸べたことに由来しているそうです。
ですから、ホストがそのゲストに喜びや感動を与え、ゲストの喜ぶ顔を見て、ホストも喜ぶという、喜びの共有というものが、ホスピタリティと言われているようです。喜びの共有、仕えられる者も、仕える者も共に喜ぶ。そのようにして、喜びが広がっていくところに、もてなしの素晴らしさがあると言えるかもしれません。
今日は、マルタ、マリアの有名な箇所が導かれておりますが、このマルタが一生懸命もてなしをしていたのであります。しかしマルタの「おもてなし」というものには、喜びというものが溢れるのではなく、何か別のものが溢れていたのであります。マルタは主イエスに、こう言われています。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。マルタのもてなしには、喜びではなく、思い悩みや乱れた心というものが溢れていたのです。
神様は、 私達の心を喜び合い、愛し合うために創って下さいました。一人で思い煩い、苦い思いに翻弄されるためでないのです。今日はこの所から、第一に「愛を迎え入れる」という事。第二には「愛に生かされる」という事。そして第三には「愛を信じる」という事に、心向けたいと願っています。
第一に「愛を迎え入れる」という事ですが、このマルタとマリヤの家に、主イエスを迎え入れたのは、マルタでありました。38節にこうあります。「イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」。
マルタがお姉さんであり、家を仕切っていたのかもしれませんし、何よりマルタは、どちらかと言えば社交的で、もてなしが得意であったのかもしれません。ですから40節にありますように、「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」訳です。
しかし実は、ここの原文は「多くの奉仕の事で心が乱れていた」となっていて、マルタの心は、喜びではなく、乱れていたというのです。しかもそればかりか、主イエスに近寄り、こう言うのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。何と主イエスに、文句を言ってしまうのです。喜びの共有どころか、不平を押し付けて、全てを台無しにしてしまっているのです。そしてそのマルタに対して主イエスが言われたのが、41節「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」という事であったのです。
ここの所は、「あなたは、多くの事によって思い煩い、つまり心が分裂してしまい、かき乱されてしまっている」というような意味であります。マルタの心は、乱れ、分裂し、混乱してしまっていたのです。本来、喜びに与れるはずが、そうではなかったのです。何故なのでしょう。
それはマルタが、主イエスを家には迎え入れても、心の中にまで迎え入れてはいなかったからであります。結局マルタの接待は、彼女の自己満足のようなもので、彼女は自分の満足のために仕えていたのです。そして働かないマリヤを見、自分を見て、比較し出し、心が穏やかでなくなり、乱れていったのです。マルタは、主イエスを自分の心の中にまで、そしてその接待の中にまで、主イエスを迎え入れてはいなかったのです。マルタは、主イエスにもてなしをしているようで、そこでは自分しか見えず、相手は誰でもいいようなものになってしまっていたのです。
私達はいかがでしょう。どんなに一生懸命していても、その心が自分の事だけになる時、その心は乱れ、支離滅裂になり、混乱してくるのです。何故なら、心というものは他者と交わり、分かち合い、そして一つに結び合うため、つまり愛のために、神様が創って下さった一番大切な部分が、心なのです。にも拘らず、自分の事だけになる時、愛が失われていってしまうのです。心から愛が失われていく時に、まさに命が失われていってしまい、心は乱れ、分裂し、死んでいってしまうのです。
そもそももし自分一人なら、心などは要らないのです。あれば寂しくて孤独にさいなまれるのです。心のない機械、ロボットであった方が、間違わず効率的に何でも仕事をこなしていけるのです。しかし神様は、ロボットを創られた訳ではないのです。神様は愛のために、人間を創られたのです。
ですから、そのような状態は、的外れなのです。つまり、神に創られながら、神から離れ、神の御心からずれてしまっている、的外れの状態、これが聖書の言う罪なのであります。そして、その罪からの救い主、それが主イエス・キリストなのです。
ですからマルタは、その自分の心の中にこそ、主イエスをお迎えする必要があったのです。主イエスは、そのために人となって来て下さった神の御子であります。マルタは、もてなしのために心乱されてしまっていたのですが、その乱れた心、思い煩った心、疲れた心、汚れた心、その心の中にこそ、主イエスをお迎えする必要があったのです。
それもその心の中心、その心の王座に迎え入れられ、心の隅々を治めて頂く必要があるのです。何故なら、イエス・キリストこそ、人の心を理解して下さる方であり、愛そのものである方であり、神の命そのものである方であるからです。結局、人間の自己中心というものが、全てを台無しにしてしまっているのです。ですから、まず主イエスと、その愛を迎え入れるところから、全てが回復していくのです。
第二の事は、「愛に生かされる」という事です。主イエスは更に、42節でマルタにこう言われます。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。
「必要なことはただ一つだけである」と主イエスは明言されます。以前の口語訳では、「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」となっていますが、凄い言葉だと思います。主イエスは、別にもてなしの事で言っている訳ではありません。人間にとって必要な根本的な事を言われているのです。
今や世の中は、物で溢れ、情報で溢れ、そして課題、問題で溢れ、科学技術は進んで便利になっているようで、人間は益々忙しくなっています。しかし聖書は今も尚、「必要なことはただ一つだけである」と主イエスの言葉を伝えているのです。
では、どんなに忙しくなろうと、人間にとって「必要なただ一つのこと」とは一体何なのか。主イエスはそう言われながら、その後は、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」としか言われていないのです。主イエスは決して、マルタが悪い、マリヤが良い、私の足許に座って聞く事が、必要なただ一つのことだ、と言われている訳ではないのです。 「マリアは良い方を選んだ」としか言われていません。「良い方」であって、これが「必要なただ一つのこと」と言われた訳ではないのです。
そして、その具体的に足許で聞く事などには何も触れないで、マリアから「それを取り上げてはならない」とだけ言われたのです。実際、それではマルタもまた主イエスの足許に座って聞き入ったとすれば、どうなったでしょう。 もてなしをするものは誰もいなくなり、マルタは座っていても落ち着かなくなり、主イエスの話を聞いていても、色んな事が気になり出して、結局、また心が乱れてくるのではないでしょうか。
主イエスは、これさえすればという、ただ一つの必要な行為の事を言っているのではないのです。要するに、人間の行為、人間が己が力で何かをする事が大事ではないのです。結局マルタが自分で頑張っている限り、心は乱れてくるのです。
何故、マリアが主の足許で聞き入っていたかといって、それはマリアが自分の無力を認めていたからであります。自分はマルタのようには出来ない、本来女性としては失格かもしれない、しかしマルタを羨まず、比較もせず、非難されても、マリアは一言も口答えしていないのです。マリアはただ、自分を主の足許に置く事しか出来なかったのです。そこにはマリアの力、誇りも何もありません。何もない自分だけれど、そんな自分を受入れて下さる主イエスの愛に、ただ身を任せようと、御許で聞き入っていたのです。マリアは自分の無力を認めつつ、自分の知恵、力、経験で生きるのではなく、ただ主の御愛で生きる事を選んだのです。どんなに自分が弱く、愚かで、惨めで、何も出来ない、価値のような者であっても、そんな自分に注がれる主イエスの御愛を知っていたからです。
何故、主が「それを取り上げてはならない。」と言われたのか。それはそれを失ったら、彼女は生きていけなかったからです。彼女は、ただ主の御愛に生かされていたからであります。 何があっても、人から取り上げては絶対ならないもの、それが愛なのです。人を生かしているもの、人をたらしめているものこそ、愛なのです。土から創られた土の器を生かして、神の子とさえするのが愛なのです。しかし、愛を失ったなら、ただの土くれであり、瓦礫、害虫が巣くうゴミにさえなってしまうのが人間なのです。しかし、人を生み出した愛というものは、地獄のような極限状態の中でも、人を人として生かし得るのです。
フランクルというユダヤ人の心理学者が、アウシュビッツ強制収容所を生き延びて、その体験を記した「夜と霧」という本があります。彼は、強健な者も発狂するような極限状態の中で、自分のような繊細な者でありながら、ただ妻のことを思う愛というものが心を満たし、自分を人として生かし得たという体験を、そこで証言しています。
「愛による、愛の中の被造物の救い―これである。たとえ最早この地上に何も残っていなくても、人間は―瞬間でもあれ―愛する人間の像に心の底深く身を捧げる事によって幸福になり得るのだという事が私に判ったのである。収容所という、考え得る限りの最も悲惨な外的状況、また自らを形成するための何の活動もできず、ただ出来る事と言えばこの上ないその苦悩に耐える事だけであるような状態―このような状態においても人間は愛する眼差しの中に、彼が自分の中に持っている愛する人間の精神的な像を想像して、自らを充たす事が出来るのである」。
そしてパウロは、あのⅠコリント13章でこう記しています。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリント13:1-3,13)。人に最も必要なもの、それこそ愛なのです。しかしそれこそ、人が最も失ってしまったものなのです。
ですからヨハネは、Ⅰヨハネ4:10でこう言っています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。
「わたしたちが神を愛したのではなく」とありますが、私達が何をしようが、そこに自己満足の愛はあっても、人を生かす愛、神を愛する愛はないのです。それは愛である神と、断絶してしまっているからであります。
しかし「ここに愛があります」とあります。主イエスの十字架にこそ愛があるというのです。その十字架こそ、主イエスが最も無力になられて、それこそ愛を失い、凶暴な獣になってしまった人間を、噛みつかれ引き裂かれながらも、抱き締め抜いて、ご自身の愛を注ぎ込まれたところであります。この十字架の愛に抱かれる事であります。この愛に生かされる事であります。
キリスト者を脅迫し、殺す事に息を弾ませていた、獣のようであったのがパウロなのです。そのパウロが十字架の愛に抱かれ、生かされた時に、先程のⅠコリント13章の愛の章を記すようになったのです。私達の形だけの、すぐ心乱し、比較し、変質するような愛ではなしに、「十字架の愛」。そのような偽りの愛を十字架に磔にし、全てを覆い、全てを刷新し、全てを生かして止まない神の愛が湧き上がっていった、その「十字架の愛」に、生かされることであります。
第三の事が、「愛を信じる」という事であります。マルタが、その後主イエスにどのように答えたかは記されておりません。ある意味、それは余り重要でなかったかもしれません。何故なら、その時のマルタにはその事は、到底理解し得るようなものではなかったからです。しかし、その主の御言葉はマルタの心に深く留まったでしょうし、そのマルタの心も、やがて変えられていったのです。
その後の出来事が、ヨハネ11章に記されていますが、彼女達を大変な試練が襲うのであります。マルタ、マリヤ達家族の詳細は不明ですが、ラザロという弟がいたのは確かなようです。しかし、そのラザロが死の病に侵されてしまい、主イエスに来て下さるようお願いするも、直ぐには来てもらえず、ラザロは死んでしまうのです。マルタ達は、兄弟だけで生活していた節があるので、その一人を失うというのは大変な悲しみであったでしょうし、主イエスに助けを求めたのに、来てもらえなかったという落胆もあったかもしれません。
しかしそのような中で、主イエスご自身はその時、こう言われていたのです。「『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(ヨハネ11:4,5)
彼女達の生活を一変させていった家族の死。それは世では、取り返しのつかない絶望の死でありました。しかし死で終わらないというのです。しかもそのような中で、主イエスの愛は何も変わらないばかりか、その愛は神の栄光を現していくというのです。しかし、ラザロはその日の内に死に、主イエスは四日後にやっとお出でになるのです。現実は、何も変わらない悲哀のどん底でありました。しかし、主イエスを迎えたマルタに主はこう言われるのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25,26)。
マルタは、「このことを信じるか」と言われても、何か死をも越える途方もない事が語られている事以外、何も理解できなかったかもしれません。しかしマルタは、尚も主イエスをメシアと信じておりました。そして、彼女達の涙に、主ご自身も涙を流されるのを見て、その主の御愛を尚信じ続けようと思ったのです。
マルタ自身は、主にラザロの墓石を取りのけるように言われても、「もう匂います」としか答えられませんでした。しかし主は言われるのです。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」。マルタは、愛する者の腐り果てた姿など一番見たくないのです。しかし涙される、その主の御愛、ただその御愛を信じて、主の御前に一番見たくないものの蓋を取ったのです。そして痛みの核心、問題の中心が、主の御前にさらけ出されたのです。
しかしその時、主の呼び声と共に、死に縛られていた者が、命にみなぎり、生き返ったのです。そしてこの時、マルタも変わったのです。墓と共に彼女の心の一番深い所も開かれ、主の御前にさらけ出され、そして主の御愛に覆われたからです。
この後、もう一度マルタ、マリアが登場します。十字架に掛かられる前、主イエスが彼女達の所に寄られたのです。ヨハネ12:2にこうあります。「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた」。マルタらしい姿です。しかしその接待は、最早自己満足のためではないのです。「イエスのためにそこで夕食が用意され」とわざわざ記され、マルタもイエスのために給仕していたと取れると思います。
そしてマリアも変わりました。かつては接待も何も出来なかった彼女でした。しかしその彼女が、接待をしているのです。上手ではありません。そればかりか、何と愚かなと非難されるようなものでした。しかし何であろうが彼女は、福音が伝えられるこの世界で、最も麗しい接待をしたと言えるのです。それは、自らの最も高価な香油を注ぎ尽くし、自らを犠牲にして髪の毛で主の御足を拭って、ただ純粋の愛以外何もない、愛による全き献身というものが現わされていったからです。そしてそれこそ、主イエスがこれから向かわれる十字架において、主が現わそうとされていたものであったのです。それこそ世には、余りに愚かなことですが、どこまでも純粋な愛以外何もない、愛のみが成し得る全き献身、それが主イエスの十字架であったのです。
マリアは、いつも姉のマルタの陰に隠れていた無力な存在であったかもしれません。しかし主の足許で、主に聞き入る事で主の愛を迎え入れ、そしてその主に身を任せ、その愛に生かされる中に、ラザロの死という試練の中でも、主の愛を信じ続け主の愛の栄光を経験した時、その愛に全身全霊を献げる以外何も出来なくなったのです。
そのように主の愛に自らを献げ抜いた一人が、先週、紹介しました、塩狩峠のモデルになった長野政雄さんと言えるでしょう。そして他にも多くの聖徒達がいる訳ですが、かつて現代の三大聖人の一人と言われた賀川豊彦という人は、キリストの愛を実践すべく、スラム街で生活し、救貧から防貧へ、世界の不幸を変えたいと、生協など、あらゆる社会運動の草分けとなっていった人物でありました。その賀川先生の記念碑に、賀川先生の自筆の書が刻まれているのですが、それが「愛は、私の一切である」という言葉であります。
私の好きな言葉の一つでもありますが、このような末の世であればこそ、必要なことはただ一つ、それこそ主イエスの愛であります。この愛を迎え入れ、この愛に生かされ、この愛を信じ抜いていくことであります。