2022年1月1日元旦礼拝「ただわが霊によって」ゼカリヤ4:1-14

2022年1月1日 元旦礼拝「ただわが霊によって」              中村和司
<ゼカリヤ4:1-14> 
1 わたしに語りかけた御使いが戻って来て、わたしを起こした。わたしは眠りから揺り起こされた者のようであった。2 彼はわたしに、「何を見ていたのか」と尋ねたので、わたしは答えた。「わたしが見ていたのは、すべてが金でできた燭台で、頭部には容器が置かれていました。その上に七つのともし火皿が付けられており、頭部に置かれているともし火皿には七つの管が付いていました。3 その傍らに二本のオリーブの木があり、一つは容器の右に、一つは左に立っていました。」4 わたしは言葉をついで、わたしに語りかけた御使いに言った。「主よ、これは何でしょうか。」5 わたしに語りかけた御使いは答えて、「これが何か分からないのか」と言ったので、わたしが「主よ、分かりません」と言うと、6 彼は答えて、わたしに言った。「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。7 大いなる山よ、お前は何者か/ゼルバベルの前では平らにされる。彼が親石を取り出せば/見事、見事と叫びがあがる。」8 また主の言葉がわたしに臨んだ。9 「ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。彼自身の手がそれを完成するであろう。こうして、あなたは万軍の主がわたしを/あなたたちに遣わされたことを知るようになる。10 誰が初めのささやかな日をさげすむのか。ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て/喜び祝うべきである。その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である。」11 わたしは言葉をついで御使いに尋ねた。「燭台の右と左にある、これら二本のオリーブの木は何ですか。」12 わたしは重ねて彼に尋ねた。「その二本のオリーブの木の枝先は何ですか。それは二本の金の管によって、そこから油を注ぎ出しています。」13 彼がわたしに、「これが何か分からないのか」と言ったので、わたしは「主よ、分かりません」と答えると、14 彼は、「これは全地の主の御前に立つ、二人の油注がれた人たちである」と言った。
に。」

新年明けまして、おめでとうございます。高い所からではありますが、今年もよろしくお願いいたします。昨年、とにかく神様の恵みと憐れみ、そして皆様の祈りの中に、ここまで導かれまして、新年を迎える事が出来ました事に、心より感謝を申し上げたいと思います。そして皆様も昨年を越えて、この新年をこのように迎える事が許されたものの、心に様々な事が行き交っておられるのではないでしょうか。新年への期待、また不安もあるかもしれません。またもしかすると、まだおせちの準備が出来ていない、お年玉の計算、年賀状どうしようか、挨拶回りどうしようかとか、色々と心をよぎるような事があるかもしれません。
しかしまず、新年のこの最初の朝から、私達は御言葉に心を向けていきたいと思います。特に、この年神様から導かれました御言葉を覚えたいと思います。この年は、旧約と新約と両方から一つづつ御言葉が与えられております。それが旧約のゼカリヤ4:6後半と、新約が使徒1:8の御言葉です。ご一緒に唱和して見ましょう。
ゼカリヤ4:6、「武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって、と万軍の主は言われる」。そして使徒1:8、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。
共通しますのは主の御霊であります。そして、今私達に何が必要かといってそれこそ、聖霊による御業ではないかと導かれております。そして今日はまず、ゼカリヤの御言葉に目を留めたいと思います。そして元旦でもあり、今日はお集いになれない方もおありでしょう。明日改めてゼカリヤ、使徒と見て行きたいと願っています。
そして、まずゼカリヤ書ですが、イスラエルの民がバビロン捕囚を終えて、ユダヤの地に帰還する事が許され、神殿が再建され始めるも、様々な困難のために長く中断した後、預言者ハガイによって、神殿建設が再開され、そのハガイを助けるように用いられたのが預言者ゼカリヤでありました。ゼカリヤは、激動する世界の中で、真の神の御業に仕えるように、特に多くの幻を通して預言し、またメシア預言をしていきました。このゼカリヤ4章には、五つ目の幻が記されていますが、最初にこう記されています。
1,2節「わたしに語りかけた御使いが戻って来て、わたしを起こした。わたしは眠りから揺り起こされた者のようであった。彼はわたしに、『何を見ていたのか』と尋ねたので、わたしは答えた。『わたしが見ていたのは、すべてが金でできた燭台で、頭部には容器が置かれていました。』」とあります。ゼカリヤは、どうも夢で幻を見ていたようで、その幻は、油の容器付きの金の燭台であったというのです。きっと大きな灯が、しっかり、長く灯っていたのではないかと思います。そしてその炎がゼカリヤの心に刻まれたのだと思います。燭台というのは火を灯すためにあるので、火が灯ってないなら意味がありません。火が命である訳で、この燭台はそのために油の容器がついていたのです。しかもこの油に容器は、油が絶えず補給されていたようで、燭台の炎は何があっても、くすぶる事なく、力強く燃え続けていたのだと思います。
そして、困難の只中で神殿建設に向かうイスラエルの民にとって、そのような燭台の炎、つまり力強い信仰の炎こそが、何より必要であったのです。しかし試練でなかったとしても、この燭台の炎、聖霊の油によって燃やされ続ける炎こそが、イスラエルの民に、教会に必要なのであります。そして何より、教会を形作っている、一人一人の内に、この御霊の火が燃やされ続ける事が重要なのです。
そして燭台の灯を燃やし続けるのは、聖霊であって、私達の力ではありません。油の容器が灯の燃える灯皿と一緒にあったという事は、灯の源である聖霊が、そこに豊かに留まられ、聖霊の働きが顕著であったということです。マタイ25章には、花婿を待つ十人の乙女の例えが記されていますが、愚かな乙女達は「ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった」(マタイ25:3)とあります。つまりそれは、心の中で聖霊が留まられている領域が余りに少なかったという事なのです。「油の容器」、「油の用意」、いずれも聖霊なる油は、私達の心の中にしか宿られる事が出来ないのです。私達の心が容器であって、いかに私達の心に、聖霊が宿って下さるか、満ちて下さるかという事なのです。
そして私達の心に、聖霊が豊かに宿って満ちて下さるために、第一に妨げが除かれる事の大切さ、第二に遜った従順の一歩の大切さ、第三にキリストによる尽きない油注ぎ、という事を覚えたいと思います。

第一には、妨げが除かれる事であります。6節にこうあります。
「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。」
このゼルバベルというのは、ダビデ家の王子であり、この地の総督として立てられて、大祭司のヨシュアと共に、当時の民の指導者でありました。しかし二人は、目の前の困難に囚われる民を導くのに、大変苦労していたようです。そういう中で主の言葉が、「武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって」というものであったのです。そしてまず言われているのが、「武力によらず、権力によらず」という事であります。つまり私達の内に、武力や、権力という、世の力、肉の力に寄り頼もうとする心があったなら、それが妨げになるのであって、世の力、肉の力に依らない心、ただ主の御霊に頼ろうとする心が必要なのだという事です。
私達は、武力や権力などには、縁がないと思っていても、私達が世の現実の中で、目に見える世の力、また己が力というものをいつしか求めていたり、またそのような世の力に囚われ縛られていたり、世の力を恐れて流されてしまうなら、結局、武力や権力に寄り頼んでいるのと同じであります。当時のゼルバベルにとっては、ペルシャ帝国などの大国がそうであるように、強大な武力や、税力や権力さえあれば、神殿建設などいと容易いと思ったのではないでしょうか。確かに世の中ではそうなのです。
しかしダビデが、サウル王に武力と権力で追われ、命を狙われた時、ダビデも武力でサウルを打ち取り、仇を返す事が出来る絶好の機会があったのです。しかしダビデはそのような命の危険の中でも、武力や権力を求めず、用いなかったのです。ダビデはただ神を待って神に委ね、神によって次なる王に立てられていったのです。私達がいざという時、何を求めるかです。大地震などで急に避難しなければならなくなった時、まず通帳を持ち出すか、それとも聖書か、まず車に乗って逃げようとするか、それとも主に叫んで逃げようとするか、私達の普段の心の在り方が問われるのです。
使徒5章に出て来るアナニアとサフィラは、土地を売って献金し、お金に囚われていないようで、実は人と比較し、人の称賛を得ようとし、結局お金を惜しんで自分達のために取っておきながら、土地の値段を偽って報告したのです。ペトロは、それこそ聖霊を欺いていると、神の裁きを宣告するのです。アナニアとサフィラは、殺人をした訳でも、盗みをした訳でありません。ただ人と比較して、よく思われようと嘘をついただけです。しかしそれが、世の力に縛られ囚われているのであって、聖霊に頼るどころか、聖霊を欺き締め出してしまい、結局、命を失う事にまでなってしまったのです。ペトロは自分だけは大丈夫と、己が力に寄り頼んでいました。しかし、主イエスが捕まった時には、主を見捨てて逃げ出し、大祭司の家まで付いて行く事が出来たものの、女中の言葉に怯えて、主を三度も呪いをかけて否んでしまうのです。つまり、世の権力を恐れ、世の力に呑み込まれ、世に流されてしまい、結局、世の権力の寄り頼んでいたのです。
実は武力、権力という世の力、肉の力は、私達の生活と心の隅々に蔓延ってしまっていて、その力に全く汚染されているのです。ですから、先ほどのダビデでさえ、王となり武力、権力を手にした時に、その力によってバテシェバとの姦淫、その夫の殺人という、とんでもない大罪を犯してしまうのです。
そのダビデが、詩編51でこう言っています。7節「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」。ダビデは、自分には生まれながら罪の力が染みついていると告白し、そして12~14節、「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください」。そのような自分を聖くするのは、「新しく確かな霊」「あなたの聖なる霊」「自由の霊」という、つまり聖霊以外にないと告白しているのです。そしてそれは、19節で「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」と語っているように、ダビデの心が砕かれていたからに他なりません。
「武力によらず、権力によらず」。それら世の力、肉の力は、人を罪の奴隷にこそしますが、神の御業には全く妨げでしかないのです。しかし自らには、その罪の力が染みついていて、腐ったものは捨てられる以外ないと、神の御前に砕かれて、全面降伏する所にこそ、御霊に与る道があります。

第二に遜った従順の一歩の大切さという事です。ゼルバベル自身は、小さい存在であったかもしれません。その神殿建設への取組み、その工事の始めも、10節に「誰が初めのささやかな日をさげすむのか。」とあるように、ささやかで見劣りのするものであったかもしれません。しかし「ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て/喜び祝うべきである。」とあるのです。小さく見えたその「石」、神殿の土台に据えられた礎石ではないかと思います。しかしその礎石の置かれた一歩、それこそ神によって選び抜かれた一歩であったというのです。全てをご存知で、支配されている方によって、選び抜かれ、計算され尽くし、計画された一歩という事です。そして確かに困難を究めながらも、神殿は一気に完成するのです。これが第二神殿と言われるものです。
その後も、イスラエルの歩み自体は混沌としたもので、諸外国の支配や、そして一時独立もしましたが、ヘロデ、続いてローマによる支配と続いていきます。しかしこの第二神殿そのものはヘロデによって大改修され、AD70まで存続し、最初のソロモンの神殿より長く用いられるのです。現在の嘆きの壁も、この改修されたヘロデの神殿の一部なのです。ですから、イエス様が通われたのも、この改修された第二神殿で、イエス様はこれを見ながら、ご自身こそが真の神殿であり、壊されても三日目に復活される事を預言されたのでした。神様は、この第二神殿がその後のイスラエルの歴史に深く関わる事をご存知で、この小さな一歩から神の御業が始まっていくのだから、「喜び祝いなさい」と、そのように語っておられるのではないでしょうか。
そして教会という、キリストの御体である霊の神殿が立て上げられたのが、聖霊が降ったペンテコステであります。しかしその大いなる御業も、弟子達が主の言葉の従って、祈って待ち望む中に齎されたのです。弟子達自身は、主イエスを見捨てて逃げたような、何も出来ない小さな存在なのです。そして集まって祈る事も、ささやかな誰でも出来る事なのです。しかし、その弟子達の一歩から、ペンテコステは齎されたのです。
リバイバルの使徒と言われるチャールズ・フィニーの時代、多くのリバイバルが起こりましたが、多くは一人の信徒の祈りから始まっているのです。ある婦人は祈り抜く内に、リバイバルを確信し、牧師は集会を開くのを拒んでいたのですが、この婦人が「集会を開いて下さらないなら、私は死んでしまいます。確かにリバイバルが起ころうとしているのです」と牧師を動かして、集会を開いたところ、大勢の者達が集い救われ、リバイバルが起こって行きました。またあるリバイバルは、酷いどもりで話も良く聞き取れない、一人の鍛冶屋の老人の祈りから始まりました。この老人が牧師に頼んで集会を開いたところ、入れきれないほどの人が集まり、集会が進む中に突然、人々が皆泣き崩れて、次々に悔改めが起こっていったそうです。そしてその覚醒が起こった時間を調べると、その老人が祈っていた時間と一致したと言われているのです。
必要なのは、御霊の管となる器、御霊の御業の一歩を担う空の器であります。「ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。彼自身の手がそれを完成するであろう。」と9節にありますが、ゼルバベルが凄いのではありません。全能の神が小さなゼルバベルを用いて、ご自身の御業を成し遂げられたのです。主が求めておられるのは、そのような聖霊の働きを担う、管となる存在です。使徒5:32には、「神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊」という言葉もあります。どのように小さな存在であれ、主はご自身に従順に仕える器を通して、御霊の御業を現わしていって下さるのです。

第三に、キリストによる尽きない油注ぎ、という事を覚えたいと思います。11節からの所でゼカリヤは、幻で金の燭台の左右にあった二本のオリーブの木について御使いに尋ねます。そのオリーブの木から金の管が出ていて、燭台の油の容器に繋がっているのです。そしてオリーブの木から直接、オリーブ油がその容器に補給されていて、最早燭台の油は尽きないようになっていたのです。
そしてこの二本のオリーブの木は、「二人の油注がれた人たちである」と言われています。これは直接的には、当時の指導者、総督の王子ゼルバベルと、大祭司ヨシュアであると言われます。しかしまたそれは王であり、祭司ある、やがてのキリストご自身を暗示しているとも言われているのです。そして教会と言う金の燭台の油の真の源こそ、キリストご自身であるのです。
12節に「それは二本の金の管によって、そこから油を注ぎ出しています。」とありますが、この金の管は細い管というより、流れ豊かなパイプを表しているようです。そしてその「注ぎだす」という言葉は「空にする」というような意味で、本当に注ぎ尽くされるというような激しい流れであるという事です。またこの「油」という言葉は、実際には「金」という言葉で、ここでは金のような尊い油が注ぎ尽くされていく豊かな流れが、金のパイプによってもたらされていたという事と言えます。
主イエスは、十字架に掛かられる前に、ゲツセマネの園で祈り尽くされました。ゲツセマネの園というのはオリーブ畑で、ゲツセマネというのは油絞り器という意味の言葉なのです。オリーブの実が、擦り潰されて油が搾り出されていった所であったので、そのような名がついたかもしれません。いずれにせよ、主イエスはそこで、死ぬばかりの苦悩の中で押し潰され、金のように尊い父なる神と私達への愛を注ぎ尽くして行かれたのです。私達に注がれる聖霊の油とは何かといって、そのように注ぎ尽くされていった十字架の愛そのものであると言えるのではないかと思います。そしてそれこそ尽きない油なのであります。
何故教会のシンボルが十字架であって、十字架がいつも教会にたっているのか。それは十字架から教会を生かす命の油、愛の油が絶えず溢れ、注がれているからであります。まさに御子の十字架、臨在なさる主ご自身から、主の御霊が溢れ流れ、主の愛の炎が燃え盛っているのです。この主ご自身に結ばれている限り、御霊の火が消える事はありません。
如何なる世の力や己が力では、最早新しい主の御業は始まらない事を覚えて、新年この日から、小さな一歩かもしれませんが、しっかり主の御言葉を読み、寄り頼み、そしてしっかり時間を取って祈り、主の御愛にいつも留まっている一人一人であらせていただきましょう。

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