2021年12月5日 待降節第二主日礼拝「クリスマスが導くところ」マタイ2:1-12

2021年12月5日 待降節第二主日礼拝「クリスマスが導くところ」     中村和司
<マタイ2:1-12>                
1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

いよいよ12月を迎えました。この年も人間の思いでは測り得ない大変な年であったかもしれません。しかしそのような中、ここまで守られて来ているという事は、これは神様の恵み以外なにものでもありません。目には見えませんが、神様は確かに生きておられます。そして私達を慈しんで、いつも導いて下さっている事を覚えたいと思います。
世の中も、最近はナビがあるので、便利になりましたが、そのナビも当てにならない事があります。淀橋のある方が昔、助手席の奥さんに地図を見て貰いながら、目的地に向かって車を走らせていたそうです。こっちに曲がって、次はこっちにいって、奥様の言う通りに行くのですが、中々辿り着けません。ご主人は、地図とにらめっこしている奥様に聞いたそうです。「ところで今どこにいるんだい。」、すると「それが分からないのよ」。そう言われて御主人は着けない理由がわかったそうです。機械も当てになりませんし、人間も当てになりません。結局、目に見えるもの、触れるもの、自分というものを頼りに、導かれようとするなら、私達は手探りの歩みをするしかないのであります。
昔、藤冨先生が淀橋で、グループでの学びをされていて、ある時目隠しをして盲人になったつもりで、他の人に導かれていく疑似体験ゲームをしました。私も目隠しをして、藤冨先生が手を引いて下さったので、安心して歩けばいいはずなのですが、私は一生懸命片方の手で手探りをして、自分で確かめながらしか進めなかったのです。藤冨先生を信用しているつもりが、この有様であったのです。結局、私は藤冨先生に自分を預けている訳ではなかったのです。そしてそのように自分だけに頼っている限り、私達が導かれていくという事も、どうしても自分という限界にいつも縛られてしまうのです。
しかし、このクリスマスに登場する東方の学者達は、そういう限界に縛られずに、遥かに遠き暗黒の地より、あらゆる困難を越えて奇跡的に御子の許に導かれて、人生を新しくされていった人達でありました。この朝はこの所から、「縛られない導き」、「縛られない支配」、「縛られない歩み」、という事について覚えたいと思います。

まず第一に、「縛られない導き」という事ですが、1節に占星術の学者とあります。当時の賢者、博士達という事です。要するに当時の学問は、占星術が幅を利かせるような、魔術的な要素が強かった訳です。「東の方」とは、占星術の盛んなバビロニアとも考えられます。その学者達が、2節「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」とあります。彼らは、ユダヤ人の王として誕生するメシアを拝む、それも神として礼拝するつもりであったようです。ここの「拝む」というのは、そういう意味です。バビロニアというと、かつてユダヤ人達が捕囚に連れて行かれた所です。ユダヤ人は、50年から70年捕囚に遭い、その中で旧約の文書もまとめられていったと思われます。そして民24:17等には、「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る」、というようなメシア預言もあるのです。
この学者達は、真理を追い求める真面目な学者達で、魔術的な占星術の領域では、とても彼らの心は満たされなかったという事ではないかと思います。占星術や魔術というようなものは、悪霊が働き易く、人間を縛るものです。また彼らは、当時の専制君主達の意向に絶えず縛られていたとも言えます。そういう中で、真理を求める彼らの心は、ユダヤ人達の旧約文書にある、壮大な天地創造、出エジプトやメシア伝承など、人知を超える伝承に、心惹かれていったのではないかと思います。
しかし彼らの真理探究は、そう簡単な事ではなく、困難に溢れていたと言えます。星に詳しいとはいえ、碌な望遠鏡もない当時、この学者達がこの不思議な星を見出して、そして伝承と星だけで、危険に満ちた千数百キロに亘る旅に、人生を掛けていくというのは簡単ではない訳です。この学者達が、エルサレムに辿りついたのは、誕生から既に二年も経っていた事が、その困難さを物語っていると言えると思います。しかし、どんなに困難に囲まれていたとしても、「真理はあなたたちを自由にする」とありますが、真理を求める魂を縛る事は出来ません。それは、神様の真理の光というものが、暗闇の中にいる魂を捕えて行くからです。不思議な星を見出した以上に、真理の光を見出した喜び、神からの喜びが、暗闇の中にいた彼らの心を捕えて、困難にも拘らず、人生をかけた旅に彼らを押し出し、導いていったと言えるのではないかと思います。
しかし、やっとユダヤ人の都エルサレムに辿り着いたものの、待ち受けていたのは、猜疑心の強い恐ろしい専制君主、ヘロデ大王であったのです。ヘロデ大王は、メシア、新しい王の誕生を最も恐れていた人であって、自らの地位を脅かす者を、誰であれ次々に殺していた人物でありました。ずる賢いヘロデは、学者達を利用し、メシアの居場所を突き止めたなら、抹殺して、この学者達をも亡き者にしようとしていたに違いありません。しかし学者達は、そのような事も知らずに、9節「彼らが王の言葉を聞いて出かけると」とあります。彼らはまんまと罠に嵌められたのです。
しかし聖書は、続いてこう記しているのです。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」というのです。学者達自身は、ヘロデの罠に導かれているのです。しかし、それを越えて全て導いていたのは、ヘロデではなく、東方で見た星であったのです。それもそれは、単なる星の光というより、学者達を捕えた真理の光、神からの光であったという事が出来ると思います。というのは、星が先立つという事、また星が一つの家の上に止まる、というような現象は、単なる物理的な現象としてだけでは、中々説明出来ない事だと思われますし、また次のように記されているのです。10節「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」とあるのです。この「喜びにあふれた」という言葉は、「非常に大きな喜びを大いに喜んだ」という強い言葉です。喜びにはち切れ、神からの喜びに捕えられていた彼らには、そのように見えた、という事とも言えるかもしれません。
学者達は、困難に、ヘロデの罠に、捕えられていたのではありません。神からの光、神からの喜びに捕えられていたのです。そしてそれは、結局何ものも彼らから奪う事が出来ないものであったのです。パスカルと言う人は、人間には、神にしか満たす事の出来ない、心の空洞があると言っています。私達が、神様に、主イエスに導かれるに当たって与えられた、心を照らす光、平安、喜び、というものは、世では決して味わえないもので、私達に心を本当に満たすものです。そればかりかそれ故にこそ、神からの、その光、その平安、その喜びを一度味わったなら、それは私達の心を捕えて離さないのです。神ご自身が、それらを通して私達を捕えて離さないのです。
ある宣教師であったと思いますが、大変なキリスト教迫害下にある国で、ある方に福音を語り、その人はクリスチャンになったがために、大変な迫害と苦難を受ける事になってしまい、その宣教師が、私が主イエスを伝えたためにこんな目に遭ってしまってと詫びると、その人は、とんでもないと、それでも神様に出会えた喜びと感謝に溢れ続けていたというのです。日本の最初の殉教者達、長崎26聖人の中には、12歳の少年もいました。しかし、その少年でさえ、脅され、拷問され、どんなに棄教を迫られても、彼らには、その与えれた心の平安を捨てる事は出来なかったんです。この少年は、主を慕って十字架を抱きしめたとさえ言われています。
この学者達も知らないだけで、ヘロデの魔の手にかかっていて、やがて処刑される運命であったでしょう。しかし、もう関係ないのです。そのような如何なる人間の力も、神の愛と恵みの導かれている者を縛り、支配する事は出来ないのです。その証拠に、彼らは利用され殺されるどころか、守られ、ヘロデにベツレヘムの事を教えて貰い、逆にヘロデを利用した事になるのです。世がどんなに私達を縛り、悪を働こうが、私達がどんなに弱く、窮地に追い込まれようと、神を求め、その光と喜びに導かれている者を、妨げ、損なう事は出来ないのです。

第二には、「縛られない支配」、という事を覚えたいと思います。学者達は、早速その光が不思議に指し示すところの家に入っていきます。すると11節、「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」とあるのです。「幼子に、母マリアが共におられた」ではなしに、「幼子が、母マリアと共におられた」であって、ここでは幼子が、まるで主人であるかの如く記されているのです。つまり、この学者達には、そう見えたのです。神の光に導かれて、神の喜びに与っている者には、幼子が中心に見えるのです。
世にあっては確かに、母親や大人が、無力な赤ちゃんを守っているのであり、親が赤ちゃんと共にいてあげるのです。しかし本当に親が、赤ちゃんを守り、成長させ、生かしているのか。確かに生んだようで、命と心を宿らせ、体と心を成長させ、赤ちゃんの全て握っているのは親ではないのです。親は大切ですが、親は赤ちゃんが与えられ、家族が与えられ、その喜びと育てる恵み、その大切な責任を神から託されているのに過ぎないのです。
学者達は、天の星々を仰ぎながら、自分の小ささを日頃覚えていたでしょうし、その困難な旅路を、ただ神の恵みによって導かれてくる中に、自分達の無力さ、弱さというものを身に染みて感じていたのではないでしょうか。確かに目の前の幼子は、1,2歳の全く無力な存在です。しかし、自分達も同じなのです。そして、何も出来ず、何もしていないようで、この幼子の故に、自分達は旅に出て、今日ここまで来れた事を覚える時に、そして、専制君主の恐怖政治が忍び寄っている、世の殺伐とした有様を学者達も感じていたでしょう。その中で信頼と平安、そして威厳に満ちたその幼子の微笑みを見る時に、神の光が導いたこの幼子こそ、無力な中に、全てを支配しておられる、真の王なる神なのだと、彼らは確信できたのです。
それ故、彼らは献げ物をしたのです。黄金は、まさに王に献げる献げ物でした。そして乳香というのは、神殿で神に献げるために祭司が用いるもので、非常に高価なものでした。彼らは、神と仰いだのです。更に、没薬も非常に高価な香料で、死人に塗るだけでなく、化粧品や薬としても用いられていました。学者達がメシアの受難の預言まで悟っていたかどうかは分かりませんが、十字架の救い主には相応しいものでした。
韓国にチョン・クンモという科学技術庁の長官に二度就任し、IAEA国際原子力機関の議長にもなった事もある、超優秀な方がおられます。常に首席で、高校を4ヶ月で終えてソウル大学に行き、国家代表留学生になるような人です。そしてアメリカで大学教授になって活躍するのですが、ある時、長男が重い慢性腎臓炎である事が分かるんです。チョンさんは、この息子のために、本当に神を求めるようになって教会に通い出します。しかし息子さんは悪くなる一方で、チョンさんの腎臓の一つを移植したりもします。しかし、良くはならず、息子は鬱病まで煩い、二回も自殺を図るのです。チョンさんは科学の最先端を行く学者でしたが、人間の無力さを痛感させられ、神様は何故このような試練をと、いよいよ神様を求めていったのです。
そしてある聖会に出ていた時、神の恵みに圧倒されると共に、神様の御声を聞いたそうです。「私がどんなにお前を愛しているか知っているか。お前のために十字架を背負っている、お前の息子に一度でもお前は感謝した事があるか」と、神様が言われたというのです。チョンさんは答えたそうです。「どうして私が息子に感謝するのですか。私達にこんなに苦しみを負わせていて、私が助け、私の腎臓まで与えているのですよ」。チョンさんは、このようにこの息子が問題なのですと訴えるのですが、神様が言われたそうです。「お前は自分が優秀で親孝行だと思っているが、お前が両親に与えたのは消え行く世の喜びだけで、本当の喜びや永遠の命の希望を与える事が出来たのか。今日のお前があるのは、息子の故なのだ、息子に感謝しなさい。」と言われたそうです。チョンさんの両親は苦労して、早くに召されていたのです。そしてその時チョンさんは、はっきり分かったそうです。今まで厄介な荷物と思っていたこの息子がいたからこそ、遜って祈るようになり、教会に通い、神を信じるようになり、家族も救われ、道を誤らずに来れたのだ。私が何かしたのでない。全ては恵みであって、息子が私の代わりに苦しんでくれていたのだ。全てはただただ感謝なのだ。チョンさんは泣けて泣けて、そして今まで重荷だと思っていた息子に心から赦しを乞うたそうです。そして家族が涙の内に一つになって、そしてチョンさんは、まさに主イエスを王とする僕となって、益々活躍なさっていったのです。これが神様の世界であります。最も無力な者が、実は最も神に用いられていたのです。
主ご自身、真の王であられながら、全く何も出来ない赤ちゃんとして生まれ、果ては無力の極み、十字架で全て献げて死なれたのです。しかし御父によって甦らされて、ご自身の命、その恵みと愛をもって、心開く全ての者を恵み、導き、生かし、治めて行かれるのです。学者達は、そのようにこの幼子に心開いて、全てを支配している王として信じ、献げ物をしていったのです。

最後、第三に、「縛れない歩み」という事を少し覚えたいと思います。加藤常昭という有名な先生が、この没薬の献げ物について、これは学者達が占星術をする時の道具ではなかったかと言っています。つまり彼らは、人生を導き、全て握っておられる王なる神を信じた時に、それまで寄り頼んでいた占星術など不要になってしまったという事です。そればかりか、献げた物は夫々、それまで彼らが大切にし、寄り頼んでいた宝であったでしょう。そのような地上の宝や占星術、自分の知恵や力に寄り頼むのではなしに、この王なる主ご自身がおられれば、それで十分なのだと、彼らは自分達の人生を委ねる事が出来たのです。
ですから12節、「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」とあります。学者達はまだ、ヘロデの陰謀自体は知りませんが、残忍な王様の噂ぐらいは耳にしていたでしょう。その王の許へ帰らず、命令に背くという事は、幾らでも思い煩う事が出来る不安材料であったかと思います。しかし彼らにとって、仰ぐべき王、縛られるべき存在は主ご自身であって、ただ神からの導きに従うしか、最早彼らには出来なかったのです。ですので、全てを委ねて学者達は、「別の道を通って自分たちの国へ」、今度は主を証しするために帰って行ったのです。これまで学者達は、昼は寝て、夜に星を見上げて、星を頼りに暗い中を歩む生活ではなかったと思います。しかし今や彼らは、夜にぐっすり眠って、夢で神からの導きを頂いて、そして明るい太陽の下、新しい人生に出発していく事が出来たのです。
私達は、王である主ご自身に本当にお会いする時、最早今迄と同じ歩みは出来なくなります。そして私達に本当の喜びと満足を与えて下さる主の御愛と恵み以外、何ものにも最早縛られずに、大胆に新しい歩みをして行けるのです。私達も、クリスマスに向って、そして新しい年に向って、この主の御愛と恵みという光に導かれて参りたいと思います。

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