2021年12月26日 年末感謝礼拝「恵みと感謝の落穂拾い」 中村和司
<ルツ1:22-2:12>
1:22 ナオミはこうして、モアブ生まれの嫁ルツを連れてモアブの野を去り、帰って来た。二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころであった。
2:1 ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズといった。2 モアブの女ルツがナオミに、「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」と言うと、ナオミは、「わたしの娘よ、行っておいで」と言った。3 ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。4 ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」と言った。5 ボアズが農夫を監督している召し使いの一人に、そこの若い女は誰の娘かと聞いた。6 召し使いは答えた。「あの人は、モアブの野からナオミと一緒に戻ったモアブの娘です。7 『刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください』と願い出て、朝から今までずっと立ち通しで働いておりましたが、今、小屋で一息入れているところです。」8 ボアズはルツに言った。「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。9 刈り入れをする畑を確かめておいて、女たちについて行きなさい。若い者には邪魔をしないように命じておこう。喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい。」10 ルツは、顔を地につけ、ひれ伏して言った。「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。」11 ボアズは答えた。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。12 どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」
皆さんのこの一年は、如何であったでしょうか。幸いなクリスマスを迎える事が許され、そしてこのように一年の最後の礼拝を守れるという事、それもコロナ禍の中、様々な事の起こる中で、ここまで守られ、恵まれ、導かれてきた事を、心より聖名を崇めて感謝したいと思います。今日はそのような中でルツ記を導かれております。そしてこの所から、まずナオミとルツの苦難に心を留めた後に、第一に落穂拾いの恵み、第二に主の御翼の恵み、第三に贖いの恵みを覚えたいと願っています。
まず、ナオミとルツの苦難ですが、1章を見ますとナオミ達家族が、飢饉のために、ベツレヘムから隣国モアブの野に移り住んだという事が記されています。しかしそこで御主人が死んでしまうのです。そしてそうなると息子達が、家を背負わねばならず、二人の息子はその地のモアブの女性を娶ります。しかし何と、暫くして二人の息子も死んでしまうのです。詳しい情況は分かりませんが、これはナオミにとって測り知れない苦難でありました。当然、愛するご主人、息子達への、言葉にならない別離の悲しみがあります。これからという時であったのです。まだ孫もいないのです。そして男性中心の当時の社会では、一切の権利と保証は夫にあって、夫が亡くなるなら、その息子達が拠りなのですが、皆死んでしまい、最早何の権利も保証もないのです。しかもここは異教異国の地であって、頼れる存在もないのです。ナオミは精神的にも、社会的にも孤立していました。そして経済的にも危機でありました。当時は、御主人を失ったやもめには、最早まともな仕事さえなかったのです。二人の嫁だけが残ったのですが、二人ともモアブの女性でした。ナオミは、自分が寄る辺の無い独りぼっちになってしまったと感じでしょう。もしナオミが若かったなら、ユダヤ人と再婚して、生まれた男の子と残された嫁達が再婚すれば、このままやっていける道はありました。しかしナオミは高齢で、最早このままモアブに留まる事自体が困難ではなかったかと思います。
折から郷里のユダの飢饉が収まっていると聞く時に、ナオミはベツレヘムに帰る決心をしたのです。しかしそこでも困難が予想されるのに、異国人の二人の嫁を、更に苦しめる事は出来ないとナオミは考えたのでしょう。ナオミは二人の嫁に実家に帰るように勧めたのです。二人の嫁は、最初は拒みますが、一人は承諾して帰っていきます。しかし、もう一人の嫁ルツはこういうのです。1:16「ルツは言った。『あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。』」
モアブは異教の国でありましたが、このルツは、ナオミに本当に心寄せ、そしてナオミの信じていた神様に、心を寄せていたのです。ナオミの家族を襲った苦難は、大変な苦難でありました。しかし覚えなければならない事は、神はその中でも働いておられたという事です。そして神が働いておられた故に、その苦難の中で、新たに真の神に心を寄せる、ルツのような者が起こされていたという事なのです。
人間の罪がこの世界に入り、サタンが人間の罪を足場にして働いている以上、この世界から苦難が消える事はないのです。しかしどんなに人間の罪が働き、サタンが働こうが、全てを握って今も働いておられるのは神ご自身である事を私達は忘れてはならないのです。
そしてそのような中で、まず覚えたい第一が、落穂拾いの恵みです。ナオミとルツは、このようにベツレヘムに帰って来るのですが、やもめである二人にとって、このユダの地で、新たな仕事なども期待できません。そして恐らく蓄えも底をついて来ていたでしょう。そしてナオミは高齢です。そういう中でルツは、自分から2:2「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」と言うのです。畑の刈り入れをする時に、刈る人達が落とした落穂などは、当時の貧しい者達がそれを拾って、自分のものとする事は許されていたのです。そしてイスラエルにおいては、それは律法で保障されてもいたのです。
しかし、モアブで夫が生きていた頃は、そのような事をする事など、まずなかったでしょう。ルツにとっては見ず知らずの地で、どうしていいか分からず、途方に暮れたり、尻込みして当然であった事だと思います。それもユダヤ人のやもめでさえ、肩身の狭い思いをしなければならないとすれば、まして異国のやもめなど、誰も相手にしないばかりか、何をされるか分からないというのが、現実ではなかったかと思います。しかしルツは、「畑に行ってみます」と飛び込んでいくのです。「厚意を示してくださる方」に会える保証はありません。返って可能性は少ないと言えたでしょう。仮に受け入れて下さる人がいても、どれだけ落穂が拾えるか何の保証もないのです
落穂は、働きの報酬ではありません。本来の自分の働きでない実りを拾うという事であって、恵みを拾うという事とも言えるかと思います。そして、恵みを拾うという事は、それは自分の働きでは無いのですから、感謝を現わす以外、何も出来ないのではないかと思います。ですからまた、感謝を拾う、という事でもあろうかと思うのです。ルツの現実は厳しく、彼女の出来る事は限られ、いや何もないかのように思われたかと思います。しかしそのような中でルツは、自分の思い、自分の殻の中に閉じ籠る事無く、恵みと感謝の落穂を拾いに出かけたのです。
私達は如何でしょう。この一年も大変であった、と自分の思いの中、自分の感覚の中に閉じ籠っているなら、それこそ何も変わりません。そして私達は、この一年はもう過ぎてしまったのだから、最早どうする事も出来ないと思ってしまいます。しかしそれでも今から出来る事があるのです。それが、恵みと感謝の落穂拾いであります。この一年の自分が導かれた生活の現場という畑の中で、落穂を拾うのです。神様の恵みという落穂を見つけ、これは感謝な事ではなかったかと、その落穂を拾っていくのです。私達は、自分にとって嫌な事や、困難にばかり目を留めてしまい、それに囚われてしまう傾向があります。しかし、困難や、自分の苦手の中にこそ、神様の恵みが一杯詰まっている事が多いのです。
今年は、私達の教会にとっても変化の多い年で、このような中に特別なクリスマスの集会をするのは、ちょっと大変な面があったかと思いますが、しかしその分、恵みと祝福も豊かであったと言えると思います。また私は、車の免許の更新時期がこの12月で、この忙しいのに困ったものだと思っておりました。私は運転は自信がある方なのですが、家の前にちょっと5分を超過して車を停めていただけで、駐車禁止を取られたり、一旦停止をきちっと止めなかった、また転回禁止に気付かず転回してしまったりと、違反者として講習を2時間受けさせられたのです。そして最近はドライブレコーダー搭載の車が多いものですから、結構生々しい事故の映像が残っていて、そういうものを見させられて、自分の運転傾向の診断をさせられたのですが、そのように改めて自分の運転を振り返りますと、如何に自分に運転が荒いか、危なっかしいか、確かにヒヤッとした事が何度あったか、実はこれまで大きな事故がなかったことこそ、実は恵みであったのだと本当に思わされたのです。
私達は、この一年を何か当たり前のように越えて来たと思うかもしれませんが、しかし決して当たり前ではないのであります。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」(Ⅰコリント15:10)というパウロの言葉は、何か特別な時の事だけなのか、この一年は含まれないのかというと、そうではないのです。まさに一年一年、一週一週、一日一日が恵みである訳です。
苦難の中を通らされたエレミヤは哀歌の中で語っています。哀歌3:22,23「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。』」とあります。主の慈しみと憐みが、私達の日々、朝毎に新たに注がれたからこそ、今日の私達があると言えるのです。その事をしっかり覚えたいと思います。そしてそのように、このルツが恵みと感謝の落穂を拾おうとした時、3節こうあります。「ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった」。
このボアズというのは、後で触れますが、ルツにとって、またナオミばかりか、イスラエルの民にとってのその後を決定するような重要な存在であったのです。その所に、「たまたま」と訳されていますが、これは「宿命、運命、偶然」というような意味のヘブル語で、前の口語訳では「はからずも」と訳されています。「はからずも」とは、「思いがけず」という事ですが、要するに、人間の思いを遥かに越えた、神の摂理、ご計画の中で、このような事が起こったというのです。そしてそれは、ルツが恵みと感謝の落穂拾いをしていた中に、この事が神によって起こされていったという事です。そのように恵みと感謝の落穂拾いは、私達を神様の世界に導いていきます。ですから、自分の思いに拘らず、この年の最後の所で、恵みと感謝の落穂拾いに心を用いていく事が、神様にあってとても大切なのです。
第二に覚えたい事は、主の御翼の恵みです。2:12にこうあります。「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」
これはボアズの言葉ですが、聖書では、イスラエルの神の御守り、救い、養い、導き、御業の成就というものが、母鳥の翼によく例えられているのです。例えば
「鷲が巣を揺り動かし/雛の上を飛びかけり/羽を広げて捕らえ/翼に乗せて運ぶように ただ主のみ、その民を導き/外国の神は彼と共にいなかった」(申32:11,12)。
「神は羽をもってあなたを覆い/翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾」(詩91:4)。
「神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ あなたの家に滴る恵みに潤い/あなたの甘美な流れに渇きを癒す。命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る」(詩36:8―10)。
「わたしの魂はあなたを避けどころとし/災いの過ぎ去るまで/あなたの翼の陰を避けどころとします。いと高き神を呼びます/わたしのために何事も成し遂げてくださる神を」(詩57:2,3)。
このように、まさに神の愛というものが、母鳥の翼に例えられているのです。そして「あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。」と告白し、主の恵みを求めていたルツは、既に主の御翼に抱かれているのだと、ボアズは語っているのです
実際、ルツはボアズの畑で、雇われている働き人達の間で、何の妨げも嫌がられる事もなく、落穂を拾う事が出来、働き人達と同じように休む事が出来、それどころか、わざと落穂が落とされて、拾う事が出来るという、あり得ない特別の待遇を受ける事が出来たのです。それこそ、神様が御翼をもって、ルツを被い、庇い、特別に顧みて下さっていたからと言えるのです。
そして神様は、御翼をもって抱く一人一人を、最善の御計画をもって導いて下さる方です。ナオミは3:1で、「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。」と言っていますが、ナオミが捜す以前に既に、神がルツをボアズの畑に導いておられたのです。
そしてナオミは、ボアズが親族であり、神様の不思議な導きを覚える時に、ある計画を立てます。ナオミ達は郷里に戻ったとはいえ、やもめですから、御主人たちの遺産や家を継ぐ権利はなく、手放さねばならなかったのです。それを防ぐためには、近い親族に全てを買い取ってもらう必要がありました。その人と結婚して、家を継ぐ男の子孫を残してもらわねばならなかったのです。
しかし、結婚となるとそう簡単な事ではありません。ボアズは立派な人であるにせよ、一番近い親族ではなかったようです。そしてボアズももう若くはありませんでした。そして嫁のルツ自身はモアブ人です。つまり、確かにルツがボアズと再婚できれば、何もかも上手くいくように思えるのですが、しかしそれはとても難しい事のように思えたのです。
そこでナオミは、ボアズの機嫌が良く、お酒で心地よく、一人仕事場で休んでいるであろう時に、ルツを近づけさせる計画を立てたのです。そして大胆にも、ボアズの衣の裾で身を覆って横になるように、ルツに言うのです。衣の裾をかける事は、結婚を意味する事でありましたが、しかし、ここではそれ以上の意味がありました。ヘブル語では、この「裾」という言葉の複数形が「翼」という言葉なのです。ナオミは、ボアズの言った2:12の言葉を聞いていたのではないかと思いますが、ルツにその行為を通して、ボアズにこう嘆願させたのです。
「私は主の御翼のもとに逃れてきましたが、あなた様の御翼のもとで、その報いを得させて下さい。あなた様は私達の家を買い取る権利のある方の一人ですから、あなた様の御翼の保護で私を覆って下さい」。こういうメッセージではなかったかと思います。しかし本来、ルツにも選ぶ権利はあるのです。ボアズも若くはないのです。ただルツは、主の御翼に身を委ねた者として、ナオミの提案に「言われるとおりにいたします」と答えて、従順に導かれるまま、身を委ねていくのです。その時、ボアズの心も動いて主の御業が進むのです。
第三に覚えたい事は、贖いの恵みです。そのように持ち上がった縁談も、ボアズよりナオミに近い他の親族を無視する事は出来ませんから、4章でボアズは、町の長老達に証人になってもらいながら、その親族と交渉し、ナオミ達の家を買い取り、親族の責任を果たす意志があるかを確認するのです。すると、その人は自分の権利を一切放棄して、正式にボアズが、ナオミ一族の家を買い取り、ルツを娶って、家を引き継いでいく事が承認されるのです。
この2章や3章、そして4章で、「責任のある」とか「責任を果たす」という言葉が何度も出てきますが、この元のヘブル語が、実は「贖う、買い戻す」という言葉なのです。ですからこの4章で、不幸を負ったナオミ達が、正式に買い戻され、贖われたという事が、クローズアップされているように思えます。そしてそれは単に、土地を失わず、家が絶えずに済んだ、ルツに身の落ち着き先が出来たという事だけでなく、ナオミとルツの苦難の人生、その全てが贖われ、買い戻されたという事が示されている事だと思うのです。
何故なら、確かにナオミとルツは、苦難の中を通らされましたが、それは益と変えられ、祝福の源とされていったからです。このボアズとルツに、男の子が与えられますが、それがオベドであり、オベドからエッサイが生まれ、そしてエッサイから、ダビデ王が生まれていったのです。そしてダビデの子孫から、主イエスが誕生して来られたのです。つまりルツは異邦人でありながら、キリストの系図に連なる者となったのです。ルツは本来、夫を亡くし、姑と異国で肩身狭く、落穂を拾うしかなかったやもめでありました。しかし、遜って一生懸命、落穂の恵みを求めて働いていった時に、神様の御翼に抱かれ、その試練の人生が贖われていったのです。
神の御子が、何故赤ちゃんとなって来られたのか。何故、十字架にまで降られたのか。それこそ、私達を贖うためであります。私達とその人生を買い取って下さり、ご自身のものとして下さるためでありました。そしてそのように、神様のものとされる時、神様が私達の責任者、保護者となって下さり、私達の全ては、全てを益とする神様の御翼で覆われていくのです。
まず恵みと感謝の落穂を拾っていきましょう。そして覆って下さっている主の御翼に、全てを委ねて参りましょう。そしてそのような私達を、主がご自身のものとして下さっている事に信頼して、いよいよ新年に、主の驚くべき御業を期待して進んで参りましょう。