2022年7月31日東戸塚伝道礼拝「羊飼いに愛される幸い」詩編23 中村和司師

<詩編23>
1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

 先月、福島県の被災地では、帰宅困難区域のほんの一部ですが、避難指示がやっと解除されました。そしてそこに、一つの牧場があったそうです。震災当時、そこには30頭ほどの肉牛がいて、原発事故が起きた時には、飼い主は泣く泣く牛たちの三日分の餌をおいて避難したそうです。そしてその後、月一度の帰宅が許されるようになって、飼い主は早速牛舎を訪ねたのですが、牛はいなかったそうです。そして町内を捜し回ると、牛たちは柵を突き破って逃げ出し、野生化して生き延びていたというのです。
喜んだ飼い主は、「よく生きていたね」と、警戒心の高まった牛を一頭一頭保護していったそうです。ところが行政は、被爆した牛は出荷できないので、殺処分の同意を求めてきたというのです。しかしこの飼い主は、そんな事が簡単に出来る訳がないと、決して首を縦に振らなかったそうです。その牛たちは17頭で、もう既に皆高齢だそうです。しかし出荷は出来なくても、確かに生きている訳です。この飼い主は、牛の名前を呼びながら、「牛は何も悪いことをしていない。家計を支えてくれた大切な家族なんだ。そうだよな、えりちゃん。明日も来るからね」と言って、避難先と牧場とを毎日行き来しながら、11年にも亘って世話をし続けたそうです。そしてついに避難指示解除を迎えたというのです。
これは福島の地元新聞に載っていた記事ですが、これが飼い主というものなのだなあ、と思いました。
「牛は何も悪いことをしていない。」と、飼い主というのは、飼われている動物の立場に身をおくのです。そして「家計を支えてくれた大切な家族なんだ」と、その存在の価値を、本人は何も分からなくても、誰よりもよく分かっているのです。それは、この飼い主が特別暖かいというより、これがやはり、命と命の触れ合い、絆というものだと思います。ロボットがロボットを育てているのではない訳であります。
今日は、有名な詩編23編が導かれておりますが、ここには「羊飼いと羊」という関係をはじめ、そのような命と命が、愛と信頼で結ばれていく、麗しい関係が描かれています。それも、愛である神様と、その神の愛に創られた人間との命の絆。更に、その人間が滅びないために、神の愛が独り子さえ与えられるほどの、愛の絆。神様と人間との、そのような麗しい掛け替えのない関係が描かれているのです。
今日はこの所から、第一に「愛に所有される幸い」、第二に「愛に導かれる幸い」、第三に「愛に追われる幸い」ということに心を向けたいと願っております。

第一に、「愛に所有される幸い」ということですが、1~3節にこうあります。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
原文では、「主は私の羊飼い」となっています。小さな羊にとって、羊飼いは保護者であると共に、全責任者であり、羊たちはその羊飼いに飼われ、所有されていると言っていいかもしれません。ですから、そこにあるのは、自らが持つ、所有する幸いというより、持たれる幸い、所有される幸いであります。
世の中では、何を得ているか、何を持っているか、所有しているかが、非常に重要であります。まず、どういう能力があるか。どれだけお金を持っているか。世の中では、これがどうしても問われます。商売をしていた祖母は、よく言っていました。1円足りなくても、スーパーでは物は買えないんだよ。でもそれは事実なのです。ですから、人々は豊かになろうと、一生懸命所有する事、蓄える事に、心血を注ぐのです。そうでないと生きていけないと思う訳ですが、しかし豊かに持ったとして、それで幸せになれるかは、全く別問題であります。どんな有能で、素晴らしいものを所有し、お金があっても、幸せでない人がどれだけいるでしょうか。自ら命を絶つ人もいる訳です。
そう考えますと、「所有する」事も確かに重要ではありますが、もっと素晴らしいのは、信頼できる存在に「所有される」という事ではないかと思うのです。自分であらゆるものを持って、自分で支配しようとするのではなしに、自分自身が良い飼い主に所有されて、飼い主の保護と管理に委ねられる、そういう幸いがあるのです。
聖書は、人間の飼い主、羊飼いになり得る信頼できる存在こそ、愛である神、主イエスキリストなのだと言っています。私が所有しなくても、主イエスが全てを所有していて下さるのです。しかも、私という存在そのものさえ、ご自身の羊、つまり大切な宝、ご自身の家族として下さるのです。先ほどの福島の飼い主は、老齢で殺処分が決まっていようと、その牛を自らの家族として養い続けたのです。まして愛なる神様は、私達をご自身の家族として迎え入れ、全てを背負って、養い育てて下さるのです。
私は実は、最近ちょっと油断して怪我をしてしまった事があり、病院に行ったのですが、私は普段は余分なお金を殆ど持っておりませんので、行ってから、お金がない事を思い出して、困ってしまいました。
しかしその時、たまたま別の必要にと、持っていたお金があったのです。そしてその金額が、必要な金額とほぼ同額であったのでびっくりしました。まるで、私が怪我をして病院に行くのを、神様はご存知であったかのように思えて仕方ない出来事でした。そしてその事の故に私も、忙しい時に何でこんな怪我してしまったんだろうとは、悩まなかったのです。神様が計算済みなのだから、大丈夫だと思えたのです。
人間は、神に創られた存在であって、自分で持つより、この神様に所有される事が何より幸いなのです。ですから聖書は、「主は私の羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」と言っているのです。「何も欠けることがない」より、「何でも持っている」の方がいいと人間は思うかもしれませんが、何でも持っていたなら、それだけ失う事も多いのです。そればかりか、全てを失ってしまう事さえあるのです。自分が何でも持つより、何でもある方のものとされて、本当に必要なものを備えて頂ける、「何も欠けることがない」ことこそが、本当の幸いであります。
そして、「主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い、 魂を生き返らせてくださる。」とあります。お腹が満たされ、渇きが潤えば、魂が生き返るのではありません。そこは「憩いの水のほとり」であって、羊同士の交わりの場、羊飼いとの語らいの場であるのです。羊にとっては、この関係こそが命であります。羊は、何も持っていません。本当に無力です。しかし、この羊飼いとの関係があれば、何も思い煩う必要はなく、恐れる必要もなく、満たされていくのです。
人間の赤ちゃんも、何も持っていません。しかし、赤ちゃんは、お母さんとの絆を持っているのです。そしてそれさえある限り、赤ちゃんは幸せであって、赤ちゃんは立派に育つのです。私達にとって、最も必要なものこそ、この愛の関係、絆であります。
そして、愛に所有される幸いとは、この愛の関係、絆の中で、守られ、育まれ、生かされる幸いであります。そして神様は、御子の十字架によって、私達をご自身のものとして買い取って下さり、決して引き離される事ない愛の絆で、私達を結んで下さるのです。

第二に、「愛に導かれる幸い」という事を覚えたいと思います。3節後半から4節にこうあります。
主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
「正しい道」とあります。つまり、備えられた歩むべき道があるという事です。羊の事を考えた、何もかも計算された、羊のための道があるのです。しかし世の中には、道なき道があり、迷いの道があり、一歩も前へ進み得ない袋小路があり、破滅に至らせる道もあるのです。
かつて私は、山道を歩くのが好きでありましたが、山で道なき道をいくのはまず無理でありました。猪突猛進という言葉もありますが、人間は猪ではありません。進もうにも、道が無ければどうにも進めないのです。また、日暮れに知らない山里を歩いていて、ずっと同じ所を回っているだけと気付いた時には、ぞっとしました。いつの間にか迷っていて、堂々巡りをしていたのです。そしてどうしても、来た道を後戻りせざるを得ない行き止まりもありました。また目の前で土砂崩れが起こり、一歩間違えば命を失っていた危険な道もあったのです。
とにかく私達の歩む道では、色んな事があるのです。そして歩む道自体も、色々とあるように思えて、悩んでしまうのです。道に迷わなくても、道を選ぶのに迷ってしまい、仮に選択肢がなくてもやはり悩むのです。それは私達の道が、余りに曲がりくねっていて、山坂が多いばかりか、何が起こるかわからない、何に出くわすか分からない困難な道が多いからです。何より、その道で行き着けるのか、願っている所に辿り着けるか、という肝心な事も全く分からないからです。
そして実際、どれだけ多くの人達が、「自分の道は何でこうなんだ。何でこうなってしまったんだ」と、先に進めず悩んでいる事でしょう。世の中では、一度道を踏み外したなら、中々元には戻り得ないのです。本当に私達の道は、思い通りにはなりません。はっきり言えるのは、この世界でこれまで、本当に自分の願い通り、思い通りの道を歩めた人は、一人もいないという事です。ですから悩むのです。
私は、小学校の頃は明るく、クラスの人気者で、勉強も良く出来る方で、人生というものは楽しいものだと思えていました。しかし小学校の終わり頃から、中学生にかけて試練が襲い、学校で居場所はないわ、家でも居場所はないわ、頼れる人間関係も何も無くなり、神様からも見放されていると思った時に、生きて行けなくなる前に、心が潰れてしまい、心病んでしまいました。高校、大学とは、かつての自分とは全く別人で、ひたすら暗く、ひたすら寂しく、ひたすら恐れる人間になってしまいました。そして結局社会にも出れず、引籠るしかなくて、全てが空回りしているようであったのです。
しかしそういう中で、主イエスにお会いできたのです。私の祖父母はクリスチャンで、幼い頃は祖父母に育てられておりましたので、私も幼い頃から神様に祈るようになっていました。家には、羊飼いの姿をした主イエスの絵も飾ってありました。しかし、主イエスを自分の知識でしか知らなかったのです。しかし自分自身が最も辛い時に、主イエスのお心に触れる事が出来たのです。そして愛というものがどういうものであるかを知ったのです。そしてその時、世界が一変していきました。
自分自身を雁字搦めに縛っていたものが、溶けていくのを感じました。そして最早自分一人の孤独の世界ではなしに、神様と共にある、愛という世界に入れられたのです。そして神様の愛というものが、本当に心を溶かし、潤し、満たしていった時に、心そのものが変わっていき、最早歩む道自体は関係なくなってしまったのです。
一人で辿る道は、道自体に支配されます。しかし一人ではない、神と共に歩む道は、その神との関係、その愛そのものに、支配されていくのです。ですから、世界が変わっていくのです。一人で歩む道は、その道での自分の経験が全てで、自分の思いが我が道となっていきます。しかし結婚し、愛する家族を持つなら、自分の思いより、その愛の関係、その触れ合い、家族への思いが、その人の歩み、道そのものとなっていくのではないでしょうか。
愛し愛される愛の絆で結ばれる者にとって、その道とは、その愛の関係そのものが、自らの歩み、人生、道となるのです。主イエスご自身がこう言われています。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)。私の愛、私との愛の絆、それがあなたの道であり、真理であり、命なのだよ、というのです。あなたが、どんな道を歩んできたとしても関係ない、あなたが歩む道、歩んでいる道、否、歩んでき道も、それは私自身なのだ。私があなたの人生を、あの十字架の犠牲で、買い取り、贖ったのだよ。だから、あなたが歩むのは、ただ私の愛の上という道なのだ。主イエスは、そのように語って下さったのです。
ですから私も、曲がりくねってしまったとしか思えない自分の道が、真っすぐに見えてきたのです。神様の愛が真っすぐだからです。これでいいんだ。私は最高の人生を歩んでいるんだと言えたのです。
皆さんは、神様が「あなたが願うなら、別の人生を選んでもいいよ」と言われたらどう答えられるでしょう。私は心から、私の人生を感謝します。同じ人生を歩ませて下さいという思いに導かれました。それは私の歩みに、神様がどれほどの愛と情熱、恵みと真実を注いで下さったかが分かったからなのです。
3節の「正しい道」とは何でしょう。これは原文では「義の道」であります。神の義の道です。それこそ私達の救いを成し遂げる道、主が共におられる愛の道なのです。
「主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる」とあります。主が、ご自身の聖名の権威をもって、ご自身の全能をもって、全責任をもって導かれるというのです。そして「導く」とは、原文では「先導する」という言葉であります。主ご自身、御自らが、先立って導かれるというのです。それは、ご自身が道となられるからです。
だから4節、「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。」と言えるのです。小さな何も分からない無力な羊が、どうして死の陰の谷を行けるのでしょう。羊だけなら、最悪の道なのです。災いは目に見えているのです。しかし、「災いを恐れない」と言うのです。災いがあろうが、最早関係ないというのです。それは、「あなたがわたしと共にいてくださる」、主ご自身が道であって下さるからです。主ご自身が全てを担い、覆い、既に御業を成し遂げて勝利して下さっているからです。主の全き御愛が、恐れを除いていくからなのです。
「あなたの鞭、あなたの杖」。羊は羊飼いが、どのように鞭で敵を倒し、杖で自らを導くか、羊は羊飼いが用いるものを知っているのです。それらのものは、まさに羊飼いの愛を表すものでありました。そして私達は、主イエスがご自身の愛を表すのに何を用いられたか、よく知っています。それこそ十字架でありました。主の十字架こそが、主の道を歩ませる私達の力となっていくのです。

第三に覚えたい事は、「愛に追われる幸い」であります。6節に「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」とあります。5節には、「わたしを苦しめる者を前にしても」とありますが、世ではとかく私を苦しめるものが追いかけてくるのです。「わたしを苦しめる者」とは、「わが敵」とも訳せる言葉ですが、敵は追いかけてくるのです。そして敵とは思わなくても、私達を追いかけてくるものは、山ほどあるのです。
仕事や成績、実績、ノルマ。ローンの返済や教育費、日々の必要。そして時間、年齢と老化。そればかりか、過去の記憶、過去の失敗。人の評価、人の恨み、妬み。そして何より、自らの欲や、自らの罪というものが、私達を追いかけてくるのです。
そしてまた、Ⅰペトロ5:8には、「敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回って」いる。つまり、追いかけている、とあります。私達は、本当に追われる存在なのです。しかし、そのⅠペトロ5:8の一節前、7節には「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」とあるのです。どんなに追われていても、「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」とあるのです。
主イエスはヨハネ10章で、良い羊飼いは、どんな時も羊を心にかけ、羊のためには命を捨てる存在なのだ、私が良い羊飼いなのだ、と語っています。そしてこの詩編23:5では、敵を前にしても、心配するどころか、身体も心も憩わせ、満たして下さるほどに、全き御守りの中に匿って下さる、砦の主人のような主が、私を迎え入れて下さるというのです。
そして6節に、「恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」とあるのです。この「恵み」という言葉は、「善、最善」とも訳せる言葉であります。そしてこの「慈しみ」というのは、どこまでも変わらない主の「不変の愛、尽きない愛」を表している言葉であります。その主の最善と不変の愛が、追いかけるというのです。
私達が、追い求めるのではありません。神の恵みと慈しみが、私達を追いかけるのです。敵は、私達の弱点や痛み失敗を狙って、私達を破滅さそうと、執拗に追いかけてくるかもしれません。しかし神様の恵みと慈しみは、私達の弱さや痛み、失敗を、覆って、敵を寄せ付けず、全てを祝福と変えるために、追いかけて下さるのです。
私達は本来、傷付き、痛み、道に迷って、喘いでいる迷子の羊なのです。自分の道を、勝手に歩んでいた存在です。敵に追いかけられても、追い求めて貰えるような、何の値打ちも価値もない存在なのです。本来、見放されて、諦められて当然なのです。
しかしこの羊飼いは、ルカ15章にありますが、「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回ら」ずにおれない羊飼いなのです。どんな犠牲を払っても、一方的に、無条件に、「見つけ出すまで捜し回ら」ずにはおれないのです。この羊飼いには、諦めるという選択肢は欠片もなかった、出来なかったのです。
私は愛というものは、自分で追いかけないと得られないものだと思っていました。敵から必死で逃げて、必死に追い求めないと得られないのが、愛だと思っていたのです。しかし、神様の愛、羊飼いの愛は、違っていたのです。世界の始まる前から、私が生まれる前から、私の評価、実績に関わらず、私の状態、態度に関わらず、何が変わろうが変わらずに、私に注がれ続け、私を生かし続け、私を求め続ける、そのような愛があったのです。それが神の愛であったのです。
迷子になった羊は、自分では何も出来ません。怖くて閉じ籠る事しか出来ないのです。何かしようと思っても、涙しか出て来ないのです。私自身が、そのように暗闇の中にうずくまり、泣き叫ぶ事しか出来なかったその時、御言葉が目に飛び込んできたのです。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。(ヨハネ20:19、20新改訳)」。
この時私は、私を捜し求め、追い求め、近づいて、「平安があるように」と全てを抱え上げて下さる私の羊飼いに出会う事が出来たのです。そして本当の愛、私を追い求め、追いかける愛を知ったのです。
そしてこの詩編23:6は、「主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」と締めくくられています。最早、主の恵みと慈しみ以外の何ものも私達を追いかけない所が、「主の家」、主が共にいまして下さる所であって、それこそ主イエスを迎え入れたところの私達の心であり、人生と言えるのです。
教会のシンボルは十字架です。既に、主イエスはあの十字架で、あなたを買い取り、あなたの歩み、人生を買い取り、あなたの痛んだ心、どうにもならない心さえ、買い取り贖って、あなたをどこまでも追い求めておられるのです。この愛の羊飼いに、「私をあなたの羊にして下さい」と祈り、羊飼いなるイエス・キリストを、自らの心と人生にお迎えしていきましょう。

この記事を書いた人

編集者