2022年7月24日東戸塚礼拝「福音を信じる喜び」使徒8:4-12,26-39 中村和司師

<使徒8:4-12,26-39>
4 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。5 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。6 群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。7 実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。8 町の人々は大変喜んだ。9 ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。10 それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。11 人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。12 しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。
26 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。27 フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、28 帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。29 すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。30 フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。31 宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。32 彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。33 卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」34 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」35 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。36 道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」37 (†底本に節が欠落 異本訳)フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。38 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。39 彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。

 これまで使徒7章でステファノの殉教。9章でサウロの回心と見て来ましたが、今日は少し戻って8章に登場しますフィリポに目を留めてみたいと思います。この人は、6章で選ばれた7人の執事の内の一人で、ステファノの次に名前が記されている人です。この人も、ここと8章以外に余り出て来る訳ではないのですが、やはり初代教会において大きな働きをした人であります。この8章の前半では、フィリポが宣教した町について、8節に「町の人々は大変喜んだ」とあり、エチオピアの宦官への個人伝道では39節、
「彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。」とあります。つまりこのフィリポという人は、人々に喜びもたらしていった、喜びの運び屋、管と言えたかもしれません。
そしてその喜びが何かというと福音であり、主イエスご自身であったといえます。今日は、この所から
第一に「御霊の導きを信じる幸い」、第二に「キリストの福音を信じる幸い」、第三に「真心から信じる幸い」という事を覚えたいと思います。

第一に「御霊の導きを信じる幸い」という事を覚えたいと思います。4,5節にありますように、元々はステファノの殉教を契機に大迫害が起こり、弟子達が地方に散っていってしまい、フィリポはサマリアに降っていったのでした。
しかしサマリアというのは、ユダヤ人が交わりを避けていた人達で、純粋なユダヤ人であれば行く事さえ避けていたような地域でありました。しかしフィリポは、何も躊躇する事無くサマリアに行き、更に彼らは、本来迫害から逃げていたはずなのですが、そこでキリストを宣べ伝えるのです。ちょうどその時、
サマリアの町では、まやかしの魔術が注目されていて、人々の心は本当の神様に飢え渇いていたのです。ですからその町で、リバイバルまでが起こるのです。そしてペトロとヨハネが応援に遣わされるほど、多くの民が主イエスを信じ、救われていったのです。
しかしフィリポは、すぐまた別の所に行くようにと導かれるです。26節「主の天使はフィリポに、『エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である。」とありますが、本当に人のいない寂しい所に行きなさいと言われたのです。そんな所に行って何になるのか、と思うような所です。本来なら、もう少しサマリアのこの注目される場所に留まりたいと思うのではないでしょうか。しかし27節、「フィリポはすぐ出かけて行った」とあるのです。フィリポは、本当に御霊の導きに信頼し、従順にお従いする人でありました。
すると「折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。」というのです。もしこの時、フィリポがすぐ従わなければ、この人に出会う事はなかったと思われます。しかも「彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。」とあるのです。彼自身が31節で、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言っているように、この人はこの時、御言葉を理解する事が出来ずに、神の導きを必要としていた時であったのです。
29節には、「すると、“霊”がフィリポに、『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った。」とあります。「追いかけて」とありますが、それは御霊ご自身が、この魂をずっと追いかけておられたという事でもあるのです。御霊は常に魂を追いかけておられます。ですから、あのサマリアの町の人々をも、御霊は追い求めておられたのかもしれません。しかし御霊の導きに従って、人々の魂を導く弟子がいなかったのです。しかしフィリポは、使徒でも、牧師でもありませんが、御霊の導きに信頼し、従順に導かれる器であったのです。30節には「フィリポが走り寄ると」とありますが、フィリポは馬車を走って追いかけたのです。そのようなフィリポを、主は必要とされ、用いられました。
箴言3:5に、こういう言葉があります。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」。進化論は偶然というかもしれませんが、聖書に偶然の世界はありません。全てに神様の御計画があります。皆さんが、その地域に置かれ、そのような人間関係が与えられ、現在のような生活が導かれているのは、偶然ではありません。神様の御計画が隠されています。しかしそれは祈って、神様の御霊の導きにお従いして、初めて分かる神様の御計画なのです。神様、私を導いて下さいと、御霊の導きを求めていきましょう。

第二に覚えたい事は、「キリストの福音を信じる幸い」という事です。それは信じる中心が、ただキリストの福音であるという事です。このエチオピアの宦官が読んでいたのは、イザヤ書の53:7-8のギリシャ語版であると思われます。この所に描かれているのは、苦難を負う主の僕の姿でありますが、この僕が一体誰であるのかと、このエチオピアの高官は思わされていたのです。
この、旧約聖書が指し示している苦難の僕が誰であるのか。そしてクリスマスに生まれ、十字架に付けられた、神の僕が誰であるのか。実はこれこそが、私達が求めるべき、最も大事な問いであります。
主イエスご自身も弟子達に、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と、マタイ16:15で問うておられます。そしてそれに対して、ペトロが答えたのが、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)という信仰告白でありました。それに対して主イエスはこう言われます。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16:17-18)。
主はペトロを本名で呼びながら、「あなたは幸いだ」、あなたこそ幸いだと、ペトロを祝福されています。
主イエスご自身が誰であるのか。主イエスがどういう方であるのか。それを知る事が、何を知るよりも、また何をするよりも、しないよりも、人間にとって最も大事な事、幸いな事なのだというのです。
そして、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われます。パウロはⅠコリント12:3で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」と言っています。そのような信仰は、本来の人間自身からは、出て来るものではないのです。外見だけを見るなら、主イエスはどこまでのただの人であったのです。その言動に触れ、何より聖霊の働きに触れていなければ、主イエスを、「生ける神の子、メシア」とは告白できないのです。弟子達は、主イエスに絶えず触れ、聖霊の働きの只中に身を置いていましたので、そう告白する事が出来ましたが、それこそ幸いな事であったのです。
そしてそのペトロに主イエスは、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われています。実はペトロというのは、「岩」という意味なので、カトリック教会は、このペトロの上に教会が立てられるのだと解釈し、ペトロを初代教皇としています。しかし原文では、「この岩」というのは「岩盤」を指す言葉であって、「ペトロ」というのは、岩盤の欠片である「岩」を指す言葉と言われています。ですから、プロテスタント教会では、ペトロ達一人一人の信仰、つまりペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と言った、その信仰告白の上に、主が教会を建てられるのだと信じているのです。
ですから、教会における信仰告白というものは、それだけ重要であったのです。やがて初代教会は、ローマ帝国の下で大迫害を受けます。クリスチャンであるという事だけで処刑されるのです。ですからある意味、心の中だけで信じて黙っていれば、迫害されずに済んだかもしれません。しかし、クリスチャン達は、命懸けで信仰を告白したのです。信仰告白をする人がいないなら、教会が建て上がらないからです。
そして「陰府の力もこれに対抗できない。」とあります。結局、天下のローマ帝国も、この信仰告白の力に対抗できずに屈し、キリスト教を国教としていったのです。
さて、そのようにこのエチオピアの宦官は、「この人は誰なのですか」という大事な問いかけをしたのですが、それに対してフィリポのした事が、35節「聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた」という事でありました。聖書に何が書いてあるかと言って、それこそ主イエスが誰であるのか、どのような方であり、私達一人一人にとって、如何に福音となる方であるかが記されているのです。
フィリポは、聖書の言葉を開きながら、ナザレのイエスこそ、約束されたメシアであり、神の御子である事。しかしそのメシアを人間が十字架に付け、御子はその人間の罪を自ら全て背負って死なれ、人間を贖って下さった事。そして三日目に復活され、信じる者の内に永遠に宿って下さり、神の子どもとして永遠の命に生きる事が出来るようにして下さったと語っていった事でしょう。
このエチオピアの宦官は、これまで旧約聖書に触れて来ていたようですが、多くは理解できませんし、自分のような存在には到底、そこに記された複雑な律法に救いを見出す事は、難しいと感じていたでしょう。しかし、律法の中心を貫いて、律法を成し遂げられ、それも聖書に記されたように、虐げられ、苦難の死を背負って、救いを成し遂げられたという、全ての鍵となるメシアの存在は、不思議に理解できたのです。このエチオピアの宦官も恐らく苦労人です。その心にイザヤ書の苦難の僕の姿が焼き付いたのでしょう。まだまだ分からない事も多いし、自分は元々ユダヤ人ではなく、律法を守れない事も多い、しかし、このメシアに寄り頼む事なら私にも出来る、そう思えたのではないでしょうか。
そして、このエチオピアの宦官は、ただこの主イエスに心を開き、この主イエスを信頼し、神の子、メシアとして信じ、寄り頼もうと思ったのです。しかし、このように主イエスを理解出来て、信頼する事ができたのは、それこそ聖霊の働きであって、エチオピアの宦官が、聖霊の導きに心を開いたからでありました。
そしてこれこそ福音であったのです。本来、このエチオピアの宦官ほど、救いにはほど遠い存在はなかったのです。しかしそのような人も、ただ主イエスの故に、主イエスと共に働かれる聖霊の故に、信じ救われる事が出来たのです。
神様はユダヤ人に、モーセを通し律法を与えられました。それは聖なる神に対して、民も聖なるものとなるために、こうあらねばならないという基準を示すものでした。しかしそれは、己が力では果たせない事を知り、神に寄り頼み、メシアを待ち望ませるためであったのです。しかし、ユダヤ人達は傲慢になってしまい、律法を形式的に守るばかりか、律法に加えて、しなければならない掟や、してはならない掟を、律法の数倍、何百もの掟を作って、いよいよ人間の業に頼るようになったのです。そして御心から、全くかけ離れるようになってしまったのです。
しかしこのエチオピアの宦官は、自分には頼る事が出来きませんでした。そして遜った心で、聖霊の導きに心を開き、主イエスを受け入れる事が出来たのです。

第三には、「真心から信じる幸い」という事ですが、36節にこうあります。「道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。』」つまり、宦官はフィリポに、洗礼を受ける条件に付いて尋ねたのです。
そしてそれについての応答が37節なのですが、新共同訳には37節がここにありません。37節は
272頁の、使徒言行録の巻末に記されています。これは、用いられた聖書の底本には37節はないけれど、底本の元となる写本で、この37節が記された他の写本もあるので、枠外としてここに置かれたようです。しかし私達は、その事を弁えていれば、聖書に連なる部分としてこれを読んでも差し支えないと思います。
37節にはこうあります。「フィリポが、『真心から信じておられるなら、差し支えありません』と言うと、宦官は、『イエス・キリストは神の子であると信じます』と答えた。
つまり、洗礼の条件と言うのは、真心から信じることだけであったのです。そして何を信じるかと言うと、「キリスト」というのは、メシア、救い主という意味ですから、イエスこそ、神の御子であり、私の救い主キリストであるという事を信じればよいのです。
そしてエチオピアの宦官の告白は、まさにそのようなものであったのです。ですから、この宦官は、今フィリポに会ったばかりで、クリスチャンの礼拝に出た事もなく、教会生活も何もしていませんでしたが、今後そのチャンスが期待できない事もあってでしょう、その場で洗礼を受けたのです。
そうすると、39節に「主の霊がフィリポを連れ去った」とありますが、これは要するに、主の霊がフィリポと宦官を引き離していったという事と捉えてよいと思います。それまで宦官は、フィリポを必要としていましたが、主イエスを信じ受入れた時、宦官を追いかけていた聖霊が、今度は彼の内に宿り、溢れていって、確信が与えられ、最早フィリポを必要としなくなったのです。
そしてフィリポ自身も、聖霊に押し出されるように、直ぐにその場を退いたのでしょう。「宦官はもはやフィリポの姿を見なかった」とあります。しかし「喜びにあふれて旅を続けた」とあるのです。ここは、「喜びに溢れて、彼の道を新しく遣わされて行った」という意味合いがあろうかと思います。
つまり、このエチオピアの宦官の心と人生が、本当に変わったのです。それはこの宦官が、真心から信じたからでありました。「真心から信じる」、それは原文では「心の全てで信じる」という言葉であります。そしてそれは心の全ての領域に、主イエスをお迎えし、お任せするという事でもあります。そしてそれは、心の創り主であり、また御子の十字架の代価をもって私達を贖い、買い取って下さった神様の愛に、自らの心をお返しするという事でもあるのです。
何が神様を最も悲しませていたかといって、神様の愛する宝、ご自身の栄光を現す存在として人間を創られたにも拘らず、その人間が神様に背を向けて、その心を罪に委ねていってしまったのです。どんな綺麗な花も、根元から切り離されたなら、やがて枯れてしまうように、そのように離れ、汚れた人間を、神様は滅ぼしてしまって当然でありました。しかし神様は、どうしてもそのような人間をそのまま見捨てる事が出来ずに、ご自身の御子を人間の罪の中に遣わされ、御子の十字架という測り知れない代価を払って、人間を贖い、買い取られたのです。
ですから人間が、その神の愛に心を開いて、その神の愛を受け入れ、神の愛に許に帰ってくる、その事こそを神は願って、御子を献げられたのです。そのひたすらな神の愛を、心の全てで受け止めて、その心のふる里である神の愛の懐に、丸ごとお返しする、この事こそ神が最も願っておられる事なのです。
ですから、真心から信じる、心の全てで信じる、そのことこそ大事であって、それだけで十分というより、それこそが求められている事であったのです。そしてそのように、その心が神の愛の懐にもう一度戻ってくる時に、人間は愛される神の子として、もう一度新しく生まれ変わる事が出来るのです。
それは、心の全てを神にお返しする中で、聖霊がそれまでの罪、汚れをきよめ、聖霊が新しい命をもたらしていくからです。ですから、このエチオピアの宦官も新しく生まれ変わる事が出来、それ故「喜びにあふれて旅を続け」ていったのです。
一方、そのような昔に比べ、今や科学技術は進み、物も溢れるほどに豊かになっていますが、しかし肝心の人間の心が変わっていない故に、人間の心は尚も満たされず、飢え渇き、争い続け、戦争は未だに世界で続いているのです。必要な事は、心が変わる事であり、新しくされる事です。ですから、真心から信じる必要があるのです。真心から信じて、その心を丸ごと神の愛の懐にお返しさえするなら、神の愛が私達の心を、癒し、満たし、新しくしていって下さるのです。
チャールズ・スポルジョンという人は、19世紀のイギリスを代表するような有名な説教者ですが、子どもの頃から自分が惨めな罪びとである事を知って、救いを求めていたそうです。そしてあらゆる教会に行って礼拝に出たのですが、難しい話を聴く事はあっても、ではどうすれば救われるのか、という肝心の福音を聞く事はなかったというのです。
ある冬の日曜、猛吹雪となって、彼はいつもの教会に行く事が出来ず、通りがかりの小さな教会の礼拝に参加したそうです。しかしそこの教会も牧師が来る事が出来なかったようで、一人の貧相な信徒が講壇に立って説教しだしたそうです。しかしこの人は、如何にも無学で、他に語る事がないからか、イザヤ45:22の御言葉を、発音も正確ではない中、ひたすら繰り返し語ったそうです。
「地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ」(イザヤ45:22)。
「愛する友よ。これは本当に短い聖句です。『仰いで』とあります。これは難しい事ではありません。足を上げるでも、指を上げるでもなく、ただ見上げればいいのです。そのために大学にいく必要もなく、千年も費やす必要はありません。誰でも、小さな子どもでも出来ることなのです。それも『わたしを仰いで』とあります。しかし多くの人は、自分自身を見るのです。自分自身を見ても無益であって、平安を見出す事は出来ません。イエス・キリストは、『わたしを見よ』と言われるのです。待つ必要はありません。『わたしを仰いで』と書いてあるからです」。
この人は、何とか話を引き伸ばしつつ、この御言葉を繰返していましたが、ついに話の種が尽きてしまい、少ない人数なので、スポルジョンが新しい人である事はすぐ分かったようで、こう話しかけてきたそうです。「お若いの。君は非常に辛そうだ。もし、君がこの御言葉に従わないなら、これからもずっと惨め、人生においても惨め、死においても惨めだ。しかし今、君が従うなら、その瞬間、君は救われるのだ。若者よ。イエス・キリストを仰ぎ見よ」。そしてその時、スポルジョンはまさに真心からキリストを仰ぐことが出来て、十字架の救いを受け取り、生まれ変わったのです。
ですから、このスポルジョンが、もしこの小さな礼拝に素直に導かれていなければ、もし御言葉を通し単純にイエス・キリストを仰いでいなければ、そしてもし真心からキリストの十字架を受け入れていなければ、大説教者スポルジョンは生まれず、当時、6000席を有する世界最大の単立教会と言われた、スポルジョンのタナバクル教会も誕生しなかったのです。
今や激動の末の世を迎えていると言えますが、だからこそ常に聖霊に導かれつつ、イエス・キリストに心向け続け、初心に帰って真心から信じ、信頼していきましょう。

この記事を書いた人

編集者