2022年6月5日 ペンテコステ記念礼拝「聖霊による救い」 中村和司師
<ローマ8:14-18>
14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
「ペンテコステ」、日本語にしますと、「聖霊降臨祭」と言われます。ペンテコステという言葉自体は、「50日目」という事で、それは主イエスの十字架から50日目、イースターの7週間後になります。主イエスは復活されて、約40日に亘ってご自身が生きている事を示された後に、オリーブ山から天に昇られ、その10日後の出来事でありました。元々は「五旬祭」というユダヤ人の収穫祭であり、後にモーセの律法が与えられた日としても祝われるようになりましたが、この日、弟子達一同に聖霊が降り、弟子達が変革され、初代教会が誕生したのです。
使徒2:1-4にこう記されています。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」
旧約の時代にも、聖霊は降られましたが、それは特別な人に、特別な時だけと限定的でした。しかしこの日、祈っていた弟子達一同に、炎のような聖霊が降られ、ずっと宿られるようになったのです。それによって、主イエスを見捨てて逃げていた弟子達が、生まれ変わっていったのです。そしてこの時は、外国の言葉を語ると言う不思議な力も与えられたのです。
炎というのは神の臨在の象徴でしたが、聖霊という方は、まさに神の霊であって、御子の霊とも言われています。主イエスご自身の姿は見えなくなりましたが、御子の霊が弟子達の内に降られ、一人一人の内に主イエスが宿られるようになったのです。そしてこの弟子達の群れが、主イエスの御体として、地上で主の働きを担う、教会となって誕生したのです。
今日は特に、この降られた聖霊に目を留めるために、ローマ8章を導かれております。そしてこの所から聖霊とは第一に「解放する霊」であり、第二に「神の子とする霊」、そして第三には「交わりと変革の霊」である事を覚えたいと願っています。
まず第一に聖霊とは「解放する霊」であります。
14節「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」とありますが、神の霊、聖霊が何故私達を導かれるかと言って、それは解放するためであります。8章1、2節にこうあります。
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」。
ここに、「命をもたらす霊の法則」と「罪と死との法則」という二つの法則が出てきます。法則というのは、どんな人にも当てはまるもので、能力があろうがなかろうが、地上にいる限り「引力の法則」からは逃れられないように、それと同じように、どんな人をも縛ってきたのが、「罪と死の法則」だというのです。
この罪というのは、人間の刑法によるものではなしに、神様の御心に適わないもの全てです。刑法には触れない、人間の心の思いも全て入ります。そしてアダムとエバ以来、人間は神様に背を向けるようになってしまい、神様の命、愛、聖さというものから離れて、自分の力で生きようとする存在になってしまうのです。ですから、その心に思い計る事は皆、自己中心なものになり、争い奪い合うようになり、やがて枯渇して死ぬ存在になってしまったのです。これが「罪と死の法則」です。どんな人も罪とは無縁でなくなり、どんなに長生きしても、やがて死ぬ存在なったのです。
法則というものは、人間の小さな力で、どうのこうの出来るものではありません。法則にはそれを覆す法則が必要なのです。そしてどんな小さな者も、法則そのものに力がありますから、その法則に頼る事が出来るのです。その覆す法則。「罪と死との法則」から解放する法則こそ、「命をもたらす霊の法則」であります。失ってしまった神からの命を取り戻す法則であって、御子が人となって下さって、もたらされた法則なのです。
アダムが堕落した故に、アダムに続く全ての人に、「罪と死の法則」がもたらされたように、御子が罪を十字架で処分され、死を打ち破って復活して下さった故に、御子に連なる者には、どんな者にもこの御子の霊が命としてもたらされるのです。そして御子に連なるとは、御子を信じ、自らの救い主と受け入れればいいのです。ですから、主イエスを信じ、受け入れる者には、どんな者にもこの御子の霊が、神の命として宿るのです。
私は主イエスを信じる前は、神様は、いると思えばいるし、いないと思えばいない、そういう存在でありました。しかし、主イエスを信じた時から、神の存在は否定出来なくなりました。いないと思っても、いる事を自分の心は知っているのです。これは聖霊の故なのです。
以前は、人と比べたり自分の思いで、物事の善悪や、価値を決めていたので、自分の罪が分からないのです。要するにそれほど自己中心なのです。しかし主イエスを信じ、聖霊を頂くようになった時に、自らが自己中心である事がわかり、自分の罪というものが分かるようになったのです。
「人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる。」(箴言21:2)という御言葉がありますが、御言葉の光が、私の心の暗闇を照らしていった時に、あるわあるわ、心の中は醜いもので一杯である事がわかりました。そしてこの醜い心を、暗闇の中で、自分の力で、何とかしよう、綺麗にしようと思っても、全く不可能なのです。泥靴で掃除しても、余計部屋が汚れるのと同じです。そもそも暗闇の中では、何が汚れかも分からない訳で、どうにもならないのです。
ある先生は、クリスチャンになる前、自分の罪がもう一つわからなかった時、宣教師の先生に言われたそうです。「強盗とか詐欺なんていうのは、罪の抜け殻ですよ。生きている蛇は怖くても、抜け殻なんて怖くないでしょう。掃いて捨てればいいです。本当に恐ろしい罪、罪の生きた本体とは、神様を締め出しているあなたの心の暗闇です。もし部屋の電気が消えて真っ暗になったら、あなたはこの暗闇をどうしますか」。そう言われてこの先生は、暗闇というものは、片付けとか掃除で何とかなるものではない訳で、自分では何ともなりません、そこでその先生は「電気をつけ直したらどうですか」と言いますと、宣教師の先生は、「そうです。人間自体がただ頑張るだけでは、何をしようが、暗闇自体を消す事は出来ません。信じようと信じまいと光である主イエスに、1センチでも2センチで心の扉を開く事です。そうすれば、あなたがどうあれ、主イエスの光があなたの暗闇を全て追い払って、あなたを明るく輝かせていくのです」。この先生は、こう言われた時に主イエスを信じる事が出来、有名な先生になられたのです。
聖書には、「すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」(エフェソ5:13,14)という御言葉もあります。聖霊は、私たちの闇を明らかにするだけでなく、闇を消し去る光となって下さるのです。太陽の光でさえ、強力な殺菌力をもちますが、聖霊の光は、私達の心を聖め、不純物を除き、病んだ所を癒していくのです。
それだけではありません。聖霊は御子の霊であって、神の御心を行う事が喜びであって、神の御心を行わせて下さるのが聖霊なのです。私は罪が分かるようになったものの、自分の力では、頑張れば頑張る程、罪に勝利する事ができませんでした。しかしとにかくお祈りして、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)という御言葉が示された時、初めて罪に勝利する、解き放たれる事が出来るようになったのです。
法則ですから、聖霊が臨まれる時に、どのような者であれ、「罪と死の法則」から解放されて行きます。ですからあの弟子達が皆変えられて、教会が誕生したのです。
第二に聖霊は、「神の子とする霊」であります。
15節に「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。」とあります」。
つまり私達は皆、かつては奴隷であって、恐れの中に縛られていたという事が言われているのです。あのアダムとエバが、神に背を向けた時に、彼らをまず襲ったのは恐れでした。ですから彼らは、神様を恐れて隠れるようになったのです。そして人間が神を離れて、自分だけを頼るようになった時、恐れが常について回るようになったのです。神を恐れ、人を恐れ、失敗を恐れ、失う事を恐れ、孤立を恐れます。そして暗闇を恐れ、死を恐れるのです。
私がかつて学校で居場所を失い、家で居場所を失い、もしかしたら自分は、神様にも受け入れて貰えないのかもしれないと疑った時に、見捨てられるという、とてつもない恐怖が、心を圧し潰していった事があります。そして恐れは、心を破壊していきます。やがて私は、強迫神経症を病むようになってしまいました。人間は、何が無くても生きていけますが、平安を失ったなら、最早まともに生きていく事は出来ないと本当に思います。
更に恐れは、人間を奴隷にしていきます。自由を奪うのです。縛るだけでなく、硬直させ、麻痺させていきます。奴隷に心は不要であって、いいなりになるロボットが必要なのです。
恐れは、ほどほどに健全に用いれば、抑止効果はあるかもしれません。しかし世では結局、力と恐れで全てを動かそうとするのです。そして恐れで世界を支配しようとしているのがサタンなのです。恐れは、決して本当の平和をもたらしません。
しかし、本当の平和を与えるのが聖霊であります。聖霊は、御子の霊とも言われていますが、主イエスはヨハネ14:27で、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」と言われています。ここの「平和」というは、「平安」と訳せる言葉です。そして聖霊が、何故平安をもたらすかと言って、聖霊が15節にあるように「神の子とする霊」であるからです。御子の霊として、私達を奴隷から解き放ち、私達の内にあって、私達を自由な神の子どもにするからなのです。母に抱かれた子どもを想像して下さい。子どもにこそ平安があります。
また主イエスは、先ほどのヨハネ14章の18節でも、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と言われていますが、それは私達を決して置き去りにされる事なく、神に属する神の愛子として、どんな時も神が一緒にいて下さり、ご自身の愛で覆って下さるという事であります。
ヨハネ8:34~36ではこうも言われています。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」
私達は、聖霊によって罪から解放されない限り、罪の奴隷であって、奴隷はいつまでも家にいない。つまり家を受け継ぐ事は出来ず、追い出される存在だというのです。しかし、子が家を受け継ぐと言うのです。子と言うのは本来御子であって、御子が私達を自由な存在、つまり私達をも神の子として下さって、私達も永遠に神の家、御国に住まう事が出来るようにして下さったのです。
Ⅱコリント5:14には、新しい聖書協会・共同訳の方が分かり易いですが、「事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。」とあります。愛される神の子どもとして、私達は最早居場所を失う事は無く、引き離される事も決してないのです。このローマ8章の最後、38,39節でパウロは結論のようにこう宣言しています。
「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。
ヨハネも、Ⅰヨハネ3:1で「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」と言っています。私達は、例え生まれ変わったとしても、神の子どもになれるような者では決してないのですが、神ご自身の愛の御霊によって、全く新しく神の子どもとして生まれ変わる事が出来るのです。
有名な御言葉ですが、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」とⅡコリント5:17にあります。
私は子どもの頃、虐めにあっていた時、何か奴隷にされているようで、心が締め付けられたまま、窒息しそうになっていた事があり、これも心病む一因になったかと思います。しかし今や、この地上にあって、たとえ様々なものに縛られているように見えたとしても、最早私達は何ものにも縛られ得ない、全く自由な神の子どもとして、決して失われない平安の霊、神の子の霊を頂いている事を感謝したいと思います。
第三に、聖霊は「交わりと変革の霊」であります。
15節後半から16節にこうあります。「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」とあります。
「アッバ」というのは、幼子が父親を「お父ちゃん」という時の言葉と言われています。聖霊は御子の霊であって、「お父さん」と呼ばわせる、祈らせる霊なのです。
私達が何故祈る事が出来るかと言って、この聖霊の故です。聖霊は、私達の内に住んで、どこまでも共にいて下さり、私達に真理を証しして下さいます。
「弁護者」「助け主」とも言われていますが、交わりの神であり、愛の霊とも言えると思います。そして聖霊の最も大切な働きとは、キリストと私達を結び付ける事であります。そしてキリストの栄光を現す事です。
そもそも人間が創られた最終的な目的が何かといって、それが神の栄光を現す事であります。神の愛によって栄光を現すためであり、その愛が注がれる器、愛し合うための器が、人間であったのです。しかし、神に背を向けてしまった人間は、その目的から全く外れ、愛を失い、争い合う、一つになり得ない存在になってしまい、最早捨てられるしかない存在になったのです。しかしそういう人間を神様は憐れんで、ご自身の霊を注いで下さり、愛の交わりの回復を成し遂げて下さったのです。そして神の子とされた者達は、神の愛の栄光を現す器となれるようになったのです。
しかし世自体が滅びに向っている中で、その愛の栄光がどのように現わされるかというと、それは苦しむ事においてであるというのです。17,18節にこうあります。
「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」。
「現在の苦しみ」というのは、決して小さなものではないのですが、神の子として、キリスト共に苦しむ中に、測り知れない神の愛の栄光が現わされるというのです。愛というものは、実は苦難の中でこそ、その栄光が現されるのです。母親の愛は、子どもへの愛の労苦、犠牲にこそ現されます。ここは苦難の中にある私達の身体自体が贖われ、御子のかたちに栄化されるという事でもありますが、その御子のかたちが何かというと、苦難の十字架から復活に至られ、愛そのものとなられた十字架の御子の似姿であるのです。
世と共に私達の外なる人は、衰え、朽ちていきます。聖霊は私達のその体を贖って、新しい栄化された体を与えて下さいます。しかし大切な事は、世の苦難の中で、私達の外側も内側も聖霊によって、十字架の主の愛の似姿に変えれられていく事なのです。初代教会の最初の殉教者はステファノでありました。彼は石打の刑に遭い、大石に潰されたその姿は、見る事も出来ない無惨な姿に損なわれてしまったでしょう。しかし主の御許で、ステファノは主と同じ復活の御体を頂けるのです。それだけではなくて聖霊は、苦難の中で、ステファノの内側をも主と同じ似姿へと変えていったのです。ステファノは、大石に潰されつつ、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言い、更にひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫ぶのです。その心が、十字架の主と同じなのです。
これが聖霊の御業です。神の子とされた者達に、苦難がないかというと、無いどころか苦難の連続かもしれません。これでもか、これでもか、と苦難が襲うのです。しかしそういう中でパウロは言うのです。「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」(ローマ5:3-5)。この「練達」という言葉は、精錬されるという意味で、不純物が除かれていくという事です。
こういう話があります。一人の精錬する職人が銀の一片を火の中に入れ、それが真っ赤に熱せられるのを見せながら語ったそうです。「銀を精錬するには、炎が最も強く燃えている、火の真ん中に入れなければならず、そうしてはじめて不純物が取り除かれる」というのです。更に「銀が精錬されている間、ずっと火の前に座っているのですか」と尋ねると、職人が答えたそうです。「もちろんです。ずっとここに座って銀を支えていないといけません。火の中にある間は、一瞬でも銀から目を離してはいけません」。 職人は、不純物が浮かび上がる度に掬い取っていきますが、更に「銀が完全に精錬されたことは、どのようにして分かるのですか」と尋ねると、職人は微笑んで「それは簡単なことですよ。銀に私の顔が映るときです」と答えたそうです。
同じように、私達の内から不純物を取り除き、主イエスの御顔が映し出されるまでに、私達を純化される職人こそ、聖霊なのです。そのために聖霊は、苦難の中でこそ私達に近く寄り添って下さり、私達のために執り成して下さるのです。ローマ8:26、27にはこうあります。
「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」。
そしてこの聖霊の執成しと御業の中で、28節「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」とあるのです。
全てが益になるというのです。そして益とは何かと言って、29,30節「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」とあります。それこそ、御子の似姿に創り上げられ、御子の栄光に与るものとされるという事です。
十字架の苦難の中でこそ、神の愛は現されました。そして苦難の中でこそ、聖霊は万事を益とするよう働いて、神の愛の炎が私達をどこまでも精錬して、不純物を除き、私達を御子の似姿、その愛の栄光に与る者としていって下さるのです。
「火に油を注ぐ」と言いますが、十字架に現された神の愛の炎に、いかなる罪も恐れの束縛も苦難も、その炎を燃やす油にしかならないのです。その炎が、主イエスを信じる私達一人一人の内に宿っている事を、このペンテコステにしっかり覚えていきたいと思います。