2022年5月22日 第四聖日礼拝「愛の同行者」ヨハネ21:15-22 中村和司師

2022年5月22日 第四聖日礼拝「愛の同行者」              中村和司師

<ヨハネ21:15-22>        
15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

これまでルカ福音書を見て来ましたが、ペンテコステを迎えるに当たり、使徒言行録に目を移していく事になります。その前に今日は、ルカ福音書と使徒言行録を結ぶように、ヨハネ福音書の最後の所を見たいと思います。しかし最後と言いましても、ヨハネ福音書は、既に20章で一旦締めくくられていて、この21章は、弟子達に焦点を当てての記述になっています。
それも特にペトロと著者であるヨハネを中心に記されているように思われます。そしてヨハネについては、自己紹介の面があるかもしれませんが、ペトロについては、もしかすると主イエスを信じる者の代表のように描かれているのかもしれません。福音書に記された12弟子の中で、最も多く記されていて、実際に中心的な働きをしていたのがペトロです。
そしてこの21章前半のガリラヤ湖での記述は、ルカ5章のペトロ達の召命の出来事によく似ているのです。そのルカ5章では、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」という主イエスの言葉に、ペトロが「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、全く当てにしていませんでしたが、ただ「お言葉ですから」と、主イエスの故にその言葉に従ったところ、あり得ない大漁の奇跡が起こったのです。
ペトロは、主イエスの内に聖なる神の御臨在を覚えて、恐れてひれ伏します。しかしそういうペトロに対して言われた言葉が、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」という約束の言葉でありました。そしてペトロ達は、全てを委ねて主に従っていったのです。
しかしそれから3年経って、ペトロが「人間をとる漁師」になれたかというと、そうではなかったのです。そのためには、主イエスの最後の仕上げが必要でありました。その一つがこの所と言えると思います。
主イエスは既に、20:22で「聖霊を受けなさい」と言われ、ペンテコステの事を暗示されています。そしてそのペテロ達が受ける聖霊は、神の愛の霊でありました。そしてペトロ達はその神の愛の霊によって、第一に「神の愛に生かされる者」、第二には「神の愛に仕える者」、第三には「神の愛に捕えられる者」とされる必要があったのです。

まず第一に「神の愛に生かされる者」という事ですが、15節にこうあります。「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた」とあります。主イエスがペトロを、「ヨハネの子シモン」と呼ばれるのは、ペトロという弟子名を、主が付けられた時以来ではないかと思います。そして主は、ルカ5章の彼の出発点を、ここで再び再現するような状況に導かれながら、彼が彼の原点というものをしっかり思い返すように導いておられるのではないかと思います。
ではその原点とは何かと言って、そのルカ5章で何があったかというと、それがかつてない不漁であり、自らの全くの無力さであり、主イエスの御前に知った自らの罪深さであったのです。そしてこの21章前半のガリラヤ湖での漁の経験は、その時の事をよく思い出させた事だと思います。そしてその中でペトロ自身は、変わらない、成長していない自分というものを、しみじみと噛み締めたんではないでしょうか。
否、成長どころか、あれほど「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:33,35)と豪語しながら、主が人々に捕えられ、その人々の中に一人いた時には、もう恐ろしくて恐ろしくて気が付いたら、イエスなど知らない、見た事もない、嘘であったら呪われてもいいとまで誓って、三度も主イエスを否んで、裏切ってしまっていたのです。
ペトロは、自分なりに一生懸命主にお従いした、この三年は何であったのだろうと思ったかもしれません。実際、多くの人達が、主の弟子訓練は失敗したと思ったのではないでしょうか。他の弟子達も、主が捕まった時には皆、主を見捨てて逃げてしまい、隠れて閉じ籠る事しか出来なかったのです。まさに何も誇れない、余りに惨めな弟子達の姿であります。
しかし、そこにこそ主の御計画があったと思われるのです。主イエスはそのようなペトロに、「ヨハネの子シモン」と語り掛けつつ、こう言われたかったのではないかと思います。「あなたの原点を省みてご覧。あなたのこれまでを振り返ってご覧。あなたはこれまで一生懸命従ってきたかもしれない。しかしそれは、あなた自身に何か力があったからだろうか。あなた自身に何か良いものがあって、従ってこれたのだろうか」。そしてペトロはそのように「ヨハネの子シモン」と呼び掛けられながら、本当に自ら自身には何もなかったと思わせられたでしょう。あるものは主を悲しませるものだけであったのです。ペトロを支え、導いていたのは、ただ主の御愛と恵みでありました。
そしてそういうペトロに主は、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われたのです」。しかしかつては、「私はこの人達以上に主にお従いしています」と、自らを誇っていたのがペトロでありました。そもそも弟子達は、最後の晩餐の時にさえ、自分達の内で誰が一番偉いかなどと議論し、競い合っていたのです。何が問題かと言って、この己が力をもって主に従おうとする心、己を誇る傲慢で利己的な心、弱い自分を偽る心、その心こそが問題であったのです。しかし自己中心な人間には、その己の姿さえ分からないのです。弟子達は、まずそれを知る必要があったのです。そしてその三年こそ、そのために備えられたものであったと言えるのです。神様が何故、イスラエルの民に律法を与え、旧約の長い歴史を導かれたのか、それこそ己が力では神に従え得ない、人間の罪深さを示すためでありました。
そして主イエスは、そのように己が力で競い合って、結局挫折したペトロに対して、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われたのです。主は今度は、愛する事で競い合うように言われたのでしょうか。「この人たち以上に」と言って、世の愛というものは競い合うかもしれませんが、神の愛、本当の愛というものは、そもそも競争をしないのです。出来ないのです。勿論それはオリンピックに出れない、競技をしないという事ではありません。要するに愛は比較をしないです。違いがあっても、誰が一番かと、それで優劣をつけません。その一人一人の存在自身が喜びであって、その一人一人の価値を知って、その存在を丸ごと受入れていくものであります。愛ある本来の家族というものが、そうであるのと同じです。
もし家族の中で、他の家族よりも、殊更に顧みられ、愛される存在があるとすれば、それは殊更に弱く、足りなく、世からはともすると役立たないと見下げられてしまうような家族ではないでしょうか。
障害をもった子供に、殊更に両親は手をかけ愛情を注ぎます。そしてともかく手のかかった子供ほど、親にとってはかけがえのない存在なのであります。愛とはそういうものなのです。聖書は何と言っているでしょう。
「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(Ⅰコリント12:22)とあります。またパウロは、
「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)と言っています。
ですから「この人たち以上にわたしを愛しているか」とは、「この人たち以上に愛される必要のある弱く、足りない、最も小さな自分である事を認めて、わたしの愛の力に生かされなさい」という事なのであります。「この人たち以上に、あなたの力でわたしを愛しているか」などと、主はペトロの力を当てにしているのでは全くないのです。その逆であるのです。ペトロに誇るべきものが何もない事、それどころか、世から見れば恥となるようなもので一杯な事を、主イエスは初めからよくご存知なのです。
しかし「それでもあなたは、私にかけがえのない存在。そのあなたを、私はどこまでも愛してきたんだよ。あなたはこれまで己が力を頼っていたかもしれない。しかし今こそ、自分が最も小さく弱く愚かな者である事を認めて、そのあなたを私が殊更に愛しているのだから、ただ私の愛に生かされて、この人たち以上に私の愛に生かされる者になりなさい」。主イエスは、そう言われたいのであります。
己が力と主の御愛が、取って代わって初めてペトロは、主の計画された人間を取る漁師になれたのであります。そしてそれは私達一人一人も同じなのであります。私達が招かれているのは、ただありのまま、この主の御愛に生かされる者であります。

第二には「神の愛に仕える者」という事です。主イエスは続いて15節で「わたしの小羊を飼いなさい」と言われます。16節では「わたしの羊の世話をしなさい」と言われ、17節では「わたしの羊を飼いなさい。」と15、16節をまとめるように語られています。
ここでの「飼いなさい」という言葉は、「養う、食べさせる」というような意味合いです。己が力では生きていけない羊達、特に弱い小羊達の心の必要を満たしてあげてほしい。私の愛の言葉で彼らを養い、私の愛で彼らを育ててほしい、と主は言われているのです。
そして「世話をしなさい」とは、まさに仕えるという事です。愛の労苦を担う事です。主イエスに愛された、その愛によって仕えていく事であります。主イエスが自らに仕えて下さったように、仕えていく事であります。この言葉の語源は「羊飼い」であります。羊飼いが羊に寄り添い、仕え、導くように、世話をしなさい、というのです。
主イエスは、100匹の内の見失った一匹を、どこまでも捜し求める羊飼いの例えを語っていますが、ペトロはそのような羊飼いを思い出したかもしれません。漁師であったペトロは、人の世話をし、仕える事など苦手であったかもしれません。しかしペトロは、やがて誰より忠実に仕える僕になっていったのです。
ユダヤ人の壁を破って、異邦人に洗礼を最初に授けていったのはペトロでありました。それを他の者達が非難した時、ペトロはその異邦人達にも聖霊が注がれた事を証して、このように答えています。
「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」(使徒11:17)。
ペトロは、自分の使徒としての権威や信仰で、新しい事を始めたのだとは言っていません。「わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」と言っているのです。ペトロは、自分に出来る事は、ただ主がされる事を妨げない事だけなのだと言っているのです。
真の羊飼いである主イエスの愛の御業を妨げない、主の愛の御霊がなさりたいようにお仕えする、ペトロは、自らが羊飼いになるというより、真の羊飼いなる主の忠実な僕になっていったのです。
主ご自身、弟子達と過ごしたその3年の公生涯も、主はご自分で歩まれたのではないのです。主ご自身、御子であられたのに、洗礼を受けられ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)という御声と共に、その時降られた聖霊にただ従われ、御霊の愛に仕え続けて、弟子達を愛して抜いて行かれたのです。そして十字架の救いを成就して復活され、御霊によってご自身の命を弟子達に、そして私達に与えて下さったのです。
ですから、その主の命を頂いた私達は、主が御霊に仕えて歩まれたように、注がれる御霊の愛に仕えて歩む事が出来るのです。マザーテレサが、こういう事を言っています。「二人の人を同じように、完全に愛することは出来ません。けれど、多くの人の中に一人の神を愛するならば、あなたは、全ての人を完全に愛することが出来るでしょう」。「私達にとって大切なのは、一人一人なのです。…私は一対一の接し方を信じます。私にとっては、どの人もイエス様なのです。イエス様は一人だけですから、今接しているこの人が、私にとっては、この世界でたった一人の人なのです」。 大勢であれ、一人であれ、マザーテレサは、ただ主イエスお一人に仕え続け、その愛の僕になっていく中に、神様の愛の御業をもたらしたのです。
主イエスのペトロへの最後の言葉は、19節、22節にあるように「わたしに従いなさい」という言葉でした。これは「私の同行者になりなさい」、という言葉です。私達は、私達を苦しめる嫌な難しい人に仕え、世話をするように招かれている訳ではありません。私達が仕え、世話をするように招かれているのは、主イエス様ご自身なのです。主イエスは、ご自身の愛に仕えさせるために、私達をご自身の愛の同行者として招いて下さっているのです。

第三には「神の愛に捕えられる者」という事を覚えたいと思います。主イエスは更に18節で、「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と言われ、この主の言葉についてヨハネが19節で、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」と説明しているのです。
つまりこれはどうも、ペトロが縛られ、連行され、殉教していくという事が、語られているようであるのですが、これから新しい出発をしようとしているのに、それは余りに酷なような気もします。しかし主イエスが実際にペトロに語られたのは18節だけで、後はヨハネの言葉です。実はこの福音書が記された時には、既にペトロは殉教していたのです。ヨハネは、ローマで暴君ネロの下で殉教していったペトロを偲びながら、これを記しているのです。
主イエスにこの時、「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と言われたペトロにはこの時、殉教の事などとはまだ理解できなかったでしょう。ただ自由が束縛され、困難するかもしれない、ぐらいにしか思えなかったかもしれません。
しかし以前のペトロであれば、それでも怖気づき、強がって、己が力で何とかしようとして、結局挫折したでしょう。そして今のペトロは、そういう自分がよく分かっていました。そして主もその事をよく知っておられたのです。しかし主イエスが知っておられたのは、それだけではありません。ペトロが苦難の中で出会ったのは、自分の弱さだけでなく、限りない主の愛と恵みの深さにこそ出会ったのだ、という事も主はよくご存知であったのです。
両手を縛られ、行きたくない所に連れて行かれると聞いて、恐れると共に、自らの情けなさに圧し潰されそうになったペトロであったと思います。しかし同時に、彼の心を占めていたのは、もはや自分の事だけではなかったのです。「こんな私を初めからご存知で、私を選び、導き、この私のために祈り続けて下さった方がおられる。私は捕まる事を恐れて、いつしか逃げる事しか、自分の事しか頭になくて、主を裏切ってしまった。しかし主は何と言っておられたか」と、主の言葉を思い出した事と思います。
ルカ22:31,32に、こうあります。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
更に聖書には、ペトロが三度も呪いさえかけて主イエスを否んでしまったその時、こう記されています。「主は振り向いてペトロを見つめられた」(ルカ22:61)。
何故、主がペトロを見つめられた事が記録されているかと言って、主イエスと目があった事をペトロが覚えていたからです。それもその目が、軽蔑の目どころか、彼のために祈り、彼を慈しんでいる目であったからです。
ペトロが打ちのめされて奈落の底に落ちていった時、下手をすれば彼もユダのように、自殺していたかもしれないのです。彼の全てが崩れていったんです。しかしそのペトロが、何故立ち直れたといって、それこそあの十字架に向かう場面で、主イエスがご自身の事よりも、こんなどうにもならない自分のために祈り続けて下さり、この私に目を注ぎ続けて下さった、その主の御愛の故であったのです。
ペトロは「両手を縛られて、行きたくない所」、十字架に連れて行かれたのは、主ご自身なのだ、と思ったでしょう。そして主ご自身を本当に縛っていたのは、それは縄ではなくて、この自分達への愛こそが、主を縛り、捕えれておられたのだと悟ったのではないでしょうか。
「あなたを十字架につけたのは、釘じゃなくて、私を愛する愛の故に、ただただ愛の故に」。これは「愛のゆえに」という賛美の歌詞ですが、主を十字架につけたのは、釘ではなくて、主の愛こそがご自身を十字架につけ、ご自身を縛っておられたのだという賛美です。
人間というのは、縛られるのを嫌い、恐れます。しかし愛は、愛する者のために喜んで縛られます。それは愛そのものが、何ものにも縛られ得ない、自由なものだからです。愛は愛する者のためには何でもします。その愛、主の御愛がペトロを捕らえたのです。
ですからその主のご愛が19節、「わたしにしたがいなさい。」と招いて下さった時に、ペトロはただ主の御愛に捕えられて、お従いしていったのです。縛られようが、行きたくない所だろうが、主の愛がペトロを解き放ち、自由にしていったのです。人の事が気になろうが、「あなたはわたしに従いなさい」との主の御愛が、彼を捕え続けたのです。
伝説によると、暴君ネロの迫害がローマで激しくなってきた時、ペトロは弟子達に促されて、ローマを去るのですが、明け方、街道を上ってくる主イエスに出会うのです。ペトロが「主よ、どこに行かれるのですか」と聞くと、主は「あなたが私の民を見捨てるならば、私はローマに行ってもう一度十字架に付く」と言われるのです。それ故ペトロはローマに帰り、そして十字架につけらます。しかしペトロは、主イエスと同じでは申し訳ないと、自ら願って逆さ十字架に付けられるのです。ペトロが最も恐れていた十字架です。しかしペトロを捕らえていたのは、最早恐れではなく、ただ主の御愛であったのです。
状況が人を縛るのではありません。恐れが人を縛っていくのです。そしていかなる状況であれ、愛は人を自由にするのです。そしてあのペンテコステに、主の愛の御霊がペトロの内に満ち溢れて時に、ペトロはいよいよ、主の愛のみに生かされ、主の愛に捕えられた、主の愛の同行者と創り変えられていったのです。
私達も、何故恐れるかといって、それは己が力に頼ろうとするからだと悟って、既に注がれているこの主の十字架の御愛に感謝して、私も主を愛します、と主の御愛に同行するものとならせて頂きましょう。

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