1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」。
現代の道というのは、殆ど舗装されていて泥沼の道というものはないかもしれませんが、しかし世では、別の泥沼というものが溢れているのではないでしょうか。
ロシアによるウクライナ侵略などは、まさに泥沼化していると言えるかもしれません。そしてその泥沼の中で、一般市民が犠牲になっている訳で、一刻も早い終結を祈っていかなければならないと思います。しかし仮に早く終結したとしても、ここまで来ますと、お互いの亀裂というものは、もう修復しがたく、その関係はともすると、泥沼化せざるを得ないものになるのではないかと思います。イスラエルとパレスチナも泥沼化していますが、人間というのは、そのようにすぐ泥沼に陥ってしまう存在ではないでしょうか。
今日は、よく知られたザアカイの所ですが、このザアカイがまた、泥沼にはまっている人でありました。このザアカイが、どういう人であったかというと、2節にこうあります。「そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった」。短い説明ですが、当時の人達はこれだけで、このザアカイがどういう人か、すぐ分かったようであります。徴税人というは、ユダヤを支配していたローマ帝国への税金を取り立てている人であって、売国奴と思われていた人達です。ローマの権力の傘で、必要以上に取り立てて私腹を肥やしていた人達です。ですから、徴税人で金持ちというのは、当然不正な取り立て、不正な高利貸し、悪事で財をなしていた訳で、徴税人は犯罪人と同列に見られていました。その親分がザアカイであった訳で、まさに悪の泥沼にはまっていたと言えるでしょう。
しかし、ここを見て行きます時に、ザアカイはまず、「孤独の泥沼」にはまっていたのであり、そして「罪の泥沼」にはまり、そしてそのような泥沼の中で、「底なしの愛」に出会っていったのが、ザアカイであったと言えるかもしれません。今日はこの所から、第一に「孤独の泥沼」、第二に「罪の泥沼」、そして第三に「底なしの愛」というものに目を向けたいと願っております。
まず第一に、「孤独の泥沼」という事ですが、このザアカイについて、3節にこうあります。
「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」。
ザアカイは、それなりの年齢であったかと思いますが、ここにこのように記されているほど、よほど背が低かったのではないかと思います。そしてそれ故に、主イエスを見ようとしても、周りの群衆に遮られて見る事が出来なかったというのです。しかし、本来背が低いなら場所を譲ってもらって、前に出させてもらえばよかったのですが、要するに彼は嫌われていたので、人々に背を向けられ、遮られたままであったという事なのです。彼は汚いお金には囲まれておりましたが、嫌われ、孤独でありました。そもそも何故そのような道に入ったのでしょう。
ザアカイという名前は、「きよし」とか「ただし」とかいう意味の名前で、そのように名付けたザアカイの親自身は、悪人という訳ではなかったと思います。しかし、小さい頃からやはり小さかった故に、いつも人から見下ろされているように感じてしまい、劣等感の塊になってしまっていたかもしれません。小さい事自体は、決して悪い事でも何でもないのですが、虐められたりした事があったかもしれません。彼にはマイナスとしか思えなかったようです。いずれにせよザアカイは、まるで被害妄想に取り付かれたように、周囲を見返してやろうと思うようになり、低い自分を何かで高くして、今度は人々を見下ろしてやろうと、走ったのがお金では なかったかと思います。お金で自分の価値や権威を高めて、人々を見下ろそうとしたのです。
そして一番手っ取り早くお金を儲けられたのが、徴税人になる事であったのです。しかしお金を稼げた代わりにザアカイは、友を失い、家族を失い、結局信頼できる人間関係を皆失って、ただ孤独の泥沼だけが残っていったのです。泥沼というものは、もがけばもがくほど、深くはまり込んでしまうものです。どんなに人がいても、良い交わりが持てないばかりか、あがけばあがくほど孤独にしかならないのです。
昔の友人が、夢で地獄を見たと言っていた事がありました。どんな夢かというと、どこまで行っても、地球上に自分しかいなかったというのです。この友人にとって、孤独こそ、地獄以外の何ものでもなかったのです。
「人が独りでいるのは良くない」(創2:18)とありますが、人は一人で生きるようには創られていません。もし世界で自分一人なら、心など無い方がいいのです。ロボットの方がいい。人間の心は孤独には耐えられないのです。人間の心は、交わり、愛というものがないから生きていけないのです。ザアカイが、「イエスがどんな人か見ようとした」とありますが、何故ザアカイのような悪人が、主イエスに惹かれたかといって、孤独であったからです。結局、お金だけでは、彼の心は生きていけなったのです。そして悪人達の、自分の事しか考えない交わりだけでも、彼の心は満たさなかったのです。そしてザアカイは、マタイという主イエスの弟子が元徴税人であったという噂を聞いて、いつしか主イエスに、心惹かれるようになっていたのだと思います。その主イエスが町に来られると聞いて、ぜひ自分もあって見たいと、意を決して出かけていったのです。
世には孤独が溢れています。確かに人は溢れているのですが、孤独も溢れていて、今日では孤独死も絶えません。イギリスには、孤独担当大臣がいるそうです。あのアダムとエバが、神に背を向けて以来、人間は自己中心になり、争い合うようになり、一緒にいても一つになれず、結局孤独になってしまうのです。孤独こそ、人間の罪がもたらした裁きかもしれません。何故なら、孤独の中では人間の心は死ぬしかないからです。まさに孤独は、死に至る泥沼であります。
第二に、「罪の泥沼」という事を覚えたいと思います。ザアカイが、そのように主イエスを求めたという事は素晴らしい事でした。しかし3節、「背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」とあるのです。ここで彼は今一度、自分の背の低さ、自分を苦しめてきた痛みに直面させられるのです。それも、そのように群衆に遮られる時、群衆が故意に自分を遮り、自分を上から見下ろしていると、たとえそうでなかったとしても彼の痛んだ心は、ついついそのように感じてしまったのではないかと思います。
ですから4節にこうあります。「それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである」。
当時はズボンなどではありません。このような事を、格式ある大人がする事は普通なかったでしょう。子供じみています。しかし最早彼は普通ではなかったのです。彼の痛んだ心が、彼の心を縛っていた訳です。子供の頃からの悔しい思いが噴き出てきて、「悔しい、見返してやる」とばかりに気付いたら、大人げなく急に走り出して、先回りして木の上に上っていたのです。彼のこれまでの人生は、自分の背の低さを、お金で繕おうとしてきた人生でしたが、今はまた、木に登る事をもって、低さを繕おうとしたのです。結局彼は尚も、背の低さを自分で受けとめる事が出来ず、周りと良い人間関係を結ぶ事も出来ないままであったのです。彼の人生は、何も変わっていませんでした。自分では変えられなかったのです。
人間、頭では色々考え、自分の無力さを中々認める事が出来ません。しかし「三つ子の魂百まで」と言われるように、人間の心というものは、人間の頭や知識、また意思だけで変えられないのです。マインドコントロールや、恐れをもって人の心を縛る事は出来ても、心の中身を変える事は難しいのです。
人間の心は、その本当の必要が満たされない限り、その心は飢えたまま、痛んだまま、病んだまま、縛られたままなのです。そして満たされないが故に、人間は様々な作りもの、代用品で繕おうとするのです。ザアカイがお金に走ったように、お酒、ギャンブル、薬物といったものから、ゲーム、異性、評価評判、経歴、権力、科学技術など、人間は実に様々なものにいつしか依存してしまい、代用品で繕い、その心を満たしてしまっているのです。ですからザアカイの人生が変わらないように、人間の歴史も変わらないで、同じ過ちを繰り返すのです。
人間の心は、そのようなもので満たされ得ないのです。人間の心は、その心を創られた神の愛によってでしか満たされないのです。そしてその神の愛から離れている所に、人間の罪というものがあるのです。ここに罪の泥沼があります。神の愛で満たされるために創られた人間の心を、偽物、不純物、汚れたもので満たそうとすればするほど、その心は命を失っていってしまうしかありません。その心は成長できないばかりか、歪んでしまい、麻痺してしまい、益々泥沼の中に埋もれるしかなくて、その心は底なし沼のような罪の中で、腐り果てていくしかないのです。
しかし、第三に心向けたい事は「底なしの愛」であります。
ザアカイに驚くべき事が起こったのです。主イエスが予想通り、木の傍にまで来たかと思うと、何とザアカイを見上げて、彼を呼ばれたのです。 5節にこうあります。
「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』」。
「イエスはその場所に来ると」とありますが、その場所とは、ザアカイが過ちを繰り返して、木に登る事によって自分を高め、上から見下ろそうとした、そのザアカイの弱さ、アキレス腱の所に来て下さったという事なのです。そして木の下で、上を見上げて、ザアカイの名を呼んで下さったのです。ザアカイは人から見下げられたくないため、低い事を恐れたかもしれません。しかしそのザアカイの下、彼が恐れていた、その低い所に立ってザアカイを招かれたのです。
変なこじつけを言えば、下というのは英語で「アンダー」、立つというのは「スタンド」ですが、合わせると「アンダースタンド」で、理解するという意味になります。主イエスは、ザアカイの痛みを理解して下さっていたのです。ザアカイは主イエスに会った事はなかったでしょう。しかし主イエスは神の御子であって、造り主としてザアカイをご存知でありました。そして低いままのザアカイを愛し、その心をよく理解し、受け入れて下さっていたのです。
町でザアカイは、7節にあるように「罪深い男」としか呼ばれていなかったのですが、主イエスは5節で、ザアカイの名を呼んで言われるのです。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。
驚くべき言葉です。「急いで降りて来なさい。」と主は言われます。ザアカイに急ぐ理由などありません。急いでいたのは、主イエスの愛でありました。それは、その痛んだ心を理解し、低いままの、そのありのままのザアカイを尚も愛して、そのザアカイを求めて止まなかった、創り主なる神の愛の叫びであったのです。
「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と主は言われたのですが、ここの一節は原文では、もっと強い言葉なのです。「今日は、あなたの家に泊まる事にしているよ、もう決めてある、何があっても、私はあなたの所にいなければならない」、そういう言葉なのです。私は神学校でギリシャ語を学ぶようになり、ここの意味を初めて知った時に、涙が溢れて止まりませんでした。
ここの言葉は、「どうしても、そうあらねばならない」「そうすることになっている」という、元々「縛る」という意味があるようですが、神が愛に縛られて、必然的に事を成し遂げられるのに使われているギリシャ語でありました。主イエスが、ご自分が十字架に掛かり、復活せねばならない、そうすることになっている、という時に使われている言葉でもあります。そして主は、このザアカイのために、そして私達のために、まさにこれからエルサレムに上り、十字架に掛かろうとされていた只中であったのです。
確かにザアカイは、底なし沼のような、罪の泥沼にはまっていたかもしれません。しかし神の愛こそ、底なしでありました。主イエスは、何ら条件をつけていません。「ザアカイ、あなたがこれまでの歩みを少しでも改められたら、あなたが少しでも良い実績を積めたなら、あなたの所に行ってあげよう」ではないのです。実際、それではザアカイは変われなかったのです。彼自身ではどうにもならなかったのです。
しかし 「あなたがどんなに何も出来なくても、自分でどうにもならなくても、それだからこそ、わたしが共にいてあげよう。たとえあなたがどのようであれ、またあなたが何と言おうが、あなたにはわたしが必要であり、わたしもあなたと共にいたいのだ。わたしはどこまでもあなたと共にいると決めているのだ。そのためにわたしは来たのだ、わたしを受入れてくれないか」。主イエスは、そのように言われたいのです。
この「泊まる」というギリシャ語は、住みつくとも訳せる言葉です。ここに神の底なしの愛があります。無条件に、一方的に、どこまでも追い求めて、離さない愛があるのです。 この測り知れない愛の招きに、このザアカイも、最早飛び込んで行くしかなかったのです。
そしてそのザアカイが、自分から言い出すのです。8節、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。
ザアカイは、これまでどんなに人に言われても、こんな事など決して出来なかったし、そんな思いを持つ事さえ出来なかったのです。しかし、丸ごと受け入れられ、愛される中で、彼の心が変わったのです。変わらざるを得なかったのです。それまで何度も失敗し、挫折し、世の中は見捨て、自分でも自分に愛想が尽きたでしょう。最早自己嫌悪に陥って、自暴自棄になるしかなかったのです。
しかしザアカイの心の本当の必要が、主イエスの愛によって満たされた時に、彼は本当に心の底から変えられ、生まれ変わる事と出来たのです。主イエスが、彼の心に、その痛んだ心の只中に来て下さったからです。そして彼が、本当のザアカイ、神が創られ、神が計画され、神の愛の作品としてのザアカイになったのです。
主イエスは、ザアカイを「失われたもの」と呼んでいますが、ザアカイは、ただただ神の愛の懐から失われていた、迷い出ていた存在であったのです。本当に泥沼の只中に陥っていた、悪党でしかなかったザアカイですが、彼はやがてカイザリアという大きな町の教会の主教になり、聖人に覚えられるようになったと言われます。
元ヤクザの進藤達也という牧師が、何冊も本を書いていますが、この人も本当に生半可でない悪党でありました。前科7犯、刑務所3回、薬物中毒になって組からも破門され、三回目の刑務所では、さすがに自分はどうなってしまうか不安になり、差し入れられた聖書をとにかく読んでいた時、エゼキエル33:11の言葉が目に飛び込んできたのです。
「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」。
恨まれる事はあっても、愛されることなどあり得ない。誰もが自分などいない方がよいと思っている自分であるのに、こんな自分が生きることを喜んで下さる神がおられる。こんな神がおられる。こんな私が愛されている。この人は今迄味わった事のないような平安と心の底から湧き上がる喜びに、独房の中で小躍りしてしまい、本当に初めてぐっすり眠れたそうです。彼は聖書を学び、出所後は、正式に足を洗います。薬物依存であったので、大変であったのですが、彼はこんな自分は、キリスト依存になるしかないと、徹底的にキリストに依存する中に、彼はやがて牧師になり、「罪人の友、主イエス・キリスト教会」という教会を開拓していったのです。
世に多くの泥沼があると思いますが、その究極の死の泥沼が当時の十字架刑でありました。もがけばもがくほど、体重で体が引き裂かれていき、呼吸困難に陥り、生き地獄の中で死に果てていく最も恐ろしい極刑でした。主イエスは私達の身代わりに、その究極の泥沼に底なしの愛をもってご自身を献げて下さり、泥沼に喘ぐ全て人を贖い取り、救い出して下さるのです
「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われる、主イエスの懐に、ザアカイのように、飛び込んでいきましょう。