2022年1月2日 新年礼拝「上からの力」使徒1:3-9

2022年1月2日 新年礼拝「上からの力」              中村和司
<使徒1:3-9> 
3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。

昨日お会いしていない方もおられると思いますので、まずご挨拶をさせて頂きます。新年明けましておめでとうございます。あらゆる意味で変化の多かった昨年ですが、恵みの内に越えさせて頂いて、新年二日目、このように最初の聖日礼拝に導かれております事を感謝したいと思います。
さて皆様は、どのようにこの新年を迎えておられるでしょうか。世の中では、年末年始といいますと、テレビなどは特別番組になっていつも賑わっています。そして大晦日からカウントダウンをして、いよいよ新しい年になって、「ハッピーニューイヤー」、「明けましておめでとうございます」と、誰もが大喜びする訳です。
そのような華やかな部分だけを見ていますと、1月1日になっただけで、何か何もかもが新しくなったような気分になってしまいます。しかしよく考えてみますと、暦が変わっただけで、現実は何も変わらないのがお正月なのです。私は若い頃、お正月をいつもそのように冷めた目で見ておりました。何故なら、変わりたい、変わって欲しいという現実に追われていたので、新しくなる事への期待が大きい分、お正月には裏切られるだけと分かっていたからです。
皆様も、そのように新しくなる事に期待を寄せるという事はないでしょうか。そして皆さんも、お正月は年が変わるだけで、自動的に物事が新しくなるとは思っておられないと思います。物事が新しくなるというのは、簡単な事ではない訳です。単なる商品は、古いものはどんどん捨てられ、新しいものが次々に出ています。しかし社会構造や世の問題の核心のような所は、中々変わらないのです。
そして最も新しくなれないで、変わらないのが人間であります。しかし、そのような人間を本当に変えて新しくしてきたのが、福音であり、聖霊の御業なのです。今年は教会の御言葉として二つ、旧約からゼカリヤ4:6後半と、新約から使徒1:8の御言葉が与えられています。ご一緒に唱和して見ましょう。
ゼカリヤ4:6、「武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって、と万軍の主は言われる」。そして使徒1:8、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
これら二つの御言葉に共通するのは、聖霊による御業であります。この年も先の見えない、何が起こるか分からない終末の世です。そしてそのような中で、何も変わらず世に流され、そしてコロナの時代を迎えて、益々疲弊しているのが教会、特に日本の教会であると思います。そのような弱りゆく教会を、新しくし変えていくのは聖霊以外にありません。聖霊こそ、逃げて閉じ籠るしか出来なかった弟子達一人一人を、全く新しくし、キリストの証人としていったお方であります。
昨日の元旦礼拝では、ゼカリヤ4:1-14にある金の燭台の幻より、教会こそ燭台であって、そこには聖霊による神の灯が燃え上がっていなければならない事を覚えました。そしてそのためには第一に、「武力によらず、権力によらず」とあるように、世の力、肉の力という妨げが除かれなければならない事。第二には、聖霊の管となって従順に、ささやかな一歩を踏み出す器が必要な事。そして第三に、その聖霊こそ、キリストの十字架から限りなく注ぎ出されている愛の霊である事を覚えました。そしてそれらを受けながら今朝、それ故その聖霊のその力というものとは、第一に、他では代わり得ない一筋の聖き純粋な愛の力である事。そして第二には、上から全てを覆う主の力である事。そして第三には、地の果てにまで主を証しする力である事を覚えたいと思います。
まず第一に聖霊は、他では代わり得ない一筋の純粋な聖き愛の力であります。
改めてゼカリヤ4:6を覚えたいと思いますが、「武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。」とあります。「ただわが霊によって」というのです。ここに「ただ」という言葉が入っております。つまり、聖霊という事が強調されていて、聖霊のみという事です。そこには聖霊と他のものとの共存は不可能という事なのです。聖霊は必要だが、世の力、自分の力もあればダブルパワーで、などという事はあり得ないのです。それは昨日覚えたように、妨げでしかないのです。ですから「ただ」、それのみと言われているのです。そしてまた、聖霊というお方が、武力、権力の世の世界とは全く世界の違う、全く異質のお方である、という事もあるのです。
ですから、世の感覚、世の経験で、聖霊を理解しようと思っても、それは出来ないのです。それは真逆の世界なのです。自己中心が当たり前の世界で、私心のない無私の愛などというものは、考えられず、理解できないのです。御霊の世界は、聖い御霊によってしか、知る事が出来ず、理解も出来ないのです。ですから、その御霊に与ろうとすればするほど、その歩みは他のものが入り込んで来ない、どこまでも純粋で、一途でひたすらな、一筋のものとならざるを得ないのです。パウロは、フィリピ3:12-13でこう言っています。
「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。
パウロが何故このような一筋の歩みをしていたかと言って、それは聖霊によってパウロが、主イエスの十字架の愛というものに捕えられていたからであります。また聖霊が現わすものこそ、それは主イエスの十字架の愛以外何ものでもないのです。
今一つの今年の聖句である使徒1章の所では、4節「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」と命じられています。つまり弟子達は、エルサレムから離れず、ひたすら御霊を待ち望み、御霊が臨まれるまで何もするな、まず何より御霊をただ待ち望め、と言われているのです。それほど、ただ聖霊によらなければ、何も成し得ない、聖霊が鍵なのだというのです。そしてその聖霊を待ち望むにあたって、主がまずどのように語っておられるのか、3節をみるならこうあります。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」。とあります。
ここで「イエスの苦難」とは、主イエスの十字架の事であります。ですから約束された聖霊は、十字架の苦難を越えてもたらされる霊であると言えるのです。そして「ご自分が生きていること」とありますが、聖霊は、私達の中に生きておられる復活の主を現わす霊でもあります。更に「神の国について話された」とありますが、神の国、愛の国を実現する霊でもあるのです。このように待ち望むべき聖霊がどのような存在か、既に暗示されているのですが、それらを語るまず最初に十字架が語られているのです。それは、この聖霊を貫いているものが、私達への主の十字架の愛であるからなのです。聖霊は、十字架の愛の霊であります。
主イエスご自身、全能者であられながら、全てを捨てて小さな赤ちゃんになられ、クリスマスに誕生され、そして十字架に向われたのです。それは主イエスご自身が、ただ主の御霊のみに貫かれ、神の愛の霊一つに生かされていたからであります。全能の神が、ご自身を注ぎ尽くされたただ一つのもの、それが十字架の愛であり、その愛の霊が聖霊であったのです。その愛の御霊のみが、世の何ものも成し得ない、救いの御業を成し遂げていったのです。主イエスはまた、「必要なことはただ一つだけである。」(ルカ10:42)と言われています。ただこの主の愛の御霊のみを、求めていきたいと願わされます。

第二に、御霊は上から全てを覆う力であります。8節に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」とあります。「あなたがたの上に」とありますが、聖霊は弟子達に上から臨む霊であり、天から臨む力であるのです。世の力、肉の力、己が力もすべて、地上の力であります。そしてそこに働いているのは、「悪の諸霊」であり、罪の力であります。エフェソ6:10以下に、霊の戦いの事が記されています。
12節「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」とあります。ここの「天にいる悪の諸霊」の「天」というのは、神の御許の天ではなく、空中という事で、世を悪の諸霊が覆い、行き交っているという事です。つまり私達の戦いは、霊の戦いであります。パウロはこの後、「真理の帯」や「正義の胸当て」等の神の武具、特に防具について語った後、戦いそのものについては、17節後半から「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」と語っています。ここの「霊」という言葉が、聖霊、御霊です。私達は、御霊がもたらす御言葉の光によって暗闇を退け、祈りの霊である主の御霊によって、主ご自身に結ばれて戦うのです。パウロは最初に10節で、「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」と、主ご自身に結び付くよう言われています。主イエスも、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と、ご自身が勝利者であって、ご自身に御霊によって結び付く事が求められているのです。
そのように主に結ばれて、そして主ご自身によってもたらされる愛と聖きこそ、聖霊がもたらす力であります。パウロは御霊が結ばせる実についてガラテヤ5:22,23でこう語っています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」とあります。これらは人間が修行して作り出せるようなレベルではなくて、十字架を越えられた神の御子が持っておられたものであるのです。人間の力だけで、殉教を前にしながら平安でいる事など出来ないのです。しかし御霊の力の与る時に、女、子供でさえ、死を恐れず信仰を守れるのです。それが上から注がれる力であって、どんな者弱く小さな者も、主イエスに心を開きさえすれは、主イエスが満して下さる力であるからです。その人自身の何かや、何か特別な条件によるものではないのです。この時の弟子達にとっては、ただ心を注いで主に祈り、主を待ち望めばよかったのです。
そして上から注がれるという事は、私達の全ての領域を覆っていくという事です。飛行機にのって地上を見る時に、何もかも見渡せますが、地上から全てを見る事は出来ません。まして神の御霊が、上から私達に臨まれるという事は、私達の全ての領域に臨む事が出来るという事なのです。私達は、自分の心さえ、その全てを把握出来ていません。潜在意識のような無意識の領域もあるのです。過去の傷、トラウマ、固定観念、今となってはどうにもならないようなものが詰まっているのが、私達の心です。しかし天地万物を創造された方の御霊、ご自身を十字架に献げられた方の御霊は、私達の心の根底、隅々にまで臨んで、全てを覆い、癒し、新しくして下さるのです。
エゼキエル37章などを見ます時に、枯れ切ったボロボロの骨々に、御霊が臨む時に、骨と骨がくっ付き、筋と肉と皮膚が生じ、自分の足で立ち上がって、大いなる集団となったというのです。47:9には、「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」とあります。この川こそ、注ぎ込まれる御霊の大河です。そしてその御霊の流れは、私達の生活、人生全てに臨み、全てを変えて行きます。そして私達の過去、未来にまで臨んで下さるのです。見える所の過去自体は変わらなくても、万事が相働いて益になるという、過去が変わる以上の驚くべきことを成し遂げて行かれるのが御霊であるのです。
私達が日々祈る事が出来、聖書を理解出来、神を信じて安らいでいる事が出来るのは、全て御霊の恵みによるのです。御霊は、私達の生活の全てに臨み、私達が主の御心に与るために、全ての恵みに与らせて下さるのです。

そして第三に覚えたい事は、御霊こそ地の果てにまで主を証しする力であります。8節後半に「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」とあります。この御霊によって与えられる私達の力は全て、この主イエスを証しする力であるという事です。つまり、私達自身を高め、誇るための力ではなしに、いかなる中でも主イエスを誇り、主に栄光を帰し、この主を伝えるために力という事です。
何故なら、全ての人がこの力、この命、この愛を必要としているからであります。そしてペンテコステの時に、ペトロがヨエル書通して、「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」(使徒2:17)とあるように、この御霊は今や全ての人に注がれ得るものなのです。ですから、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント6:2)なのです。しかし、これが主イエスの霊である以上、主イエスを信じ、主に心を開かないならば、御霊は注がれても受け取る事が出来ないのです。
私達一人一人のために人となり、十字架にかかって、私達を救って下さったこの主イエスが証しされ、伝えられなければならないのです。これをさせて下さるのが主の御霊です。私のような者が、牧師をしていけるのも全く御霊の力です。説教を備えていて感じるのは、本当に不思議に神様が語る事を導いて下さっているという事です。そうでなければ何も出来ないです。勿論、その御霊には多様性があって、それぞれに賜物があります。しかし主イエスを信じるなら、どんな人にも出来る事がこの主を証しする事です。
そして主は、時に説教よりも、この証を用いられます。淀橋教会でこの年、洗礼を受けられた方の一人は、礼拝での証しを聞いて決心されました。篠原せつという先生は、小児まひで足に障害を負い、引きずる足を恥ずかしく思われていましたが、神様の御計画とその御愛を知った時、この足の方が人々の目を惹いて主を証し出来るから感謝だと、弱さを喜ぶようになったと聞いた事があります。これも証しです。
そしてパウロは使徒20:24でこう言っています。「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」。またフィリピ1:20では「これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」とさえ語っています。パウロにとっては主イエスを証しする事が生きがいであり、命であったのです。
私達がもし主イエスに結ばれないなら、私達は隣人を傷つけこそするでしょうが、隣人を救う事などとても出来ない存在ではないでしょうか。しかし私達が主を証しする時、その証が隣人を、家族を永遠に救うのです。主イエスは、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われました。「地の果て」というのは、物理的な距離というより、私達の思いからは最も遠い所、まさかと思われる所とも言えますが、そこにも私達の証が届いていくのです。
この時代、私達に必要なものこそ、この御霊であります。主イエスもマタイ11:13で「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」と言われています。主が最も与えたいものこそ、御霊であるのです。
ですからこの御霊に豊かに与るために、しっかり求めていきましょう。この年まず、日々御言葉を読み、祈る時間を確実にとってしっかり主の愛に留まっていきましょう。そして毎週の礼拝、祈祷会、諸集会、そして奉仕に励みましょう。主の御体なる教会に御霊は働いています。コロナの先行きは見えませんが、特に祈祷会に、月に一度でも、オンラインでも挑戦してみてはいかがでしょう。そして、キリストと自らの信仰を、他者に分かち合い、証ししていきましょう。そうする中に御霊は躍動し始め、輝きだすのです。

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