2022年2月13日 第二聖日礼拝「もう泣かなくともよい」 中村和司
<ルカ7:11-17>
11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。14 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。15 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。
人は、それが悲しみにしろ、喜びにしろ、胸に迫るものがありますと、涙を流します。涙は通常、その人の見えない心の現われであります。親は、子供の涙に、胸に迫るものを感じ、子供もまた、親の涙に心動かされます。愛する者の涙は、単なる言葉以上のものを訴える重いものと言えます。
涙は実は、血液から作られています。ですから涙を流すというのは、ある意味、心の血を流しているとも言えるかもしれません。ですから、神様もまた、人間の涙を決して見過ごされません。神様は、ハガルの赤ちゃんの泣き声を聞かれ、ヨセフの涙をご存知でありました。ハンナの涙、ヒゼキヤ王の涙、ヨシヤ王の涙、エズラ、ネヘミヤの涙を御覧になって、その祈りを聞かれました。そしてダビデは、神様が自分の涙をご自身の革袋に蓄えて下さるほどに、その涙を覚えて下さる事を知っていました。更にイスラエルのバビロン捕囚を預言した、涙の預言者エレミヤの涙は、涙を拭って下さる神様の御計画に結ばれていたのです。
そして主イエスご自身は、エルサレムの行く末を覚えて涙され、ベタニヤのマリアの涙に心動かされ、涙を流されます。また主が復活されて、最初に御自身を現されたのは、涙にくれるマグダラのマリアに対してでありました。私達の涙を、何とも思わない人間がいたとしても、神様が私達の涙を見過ごされる事は決してありません。神様は涙の意味をご存知のお方であります。
そしてこの朝は、ルカ7章のナインのやもめの涙を、主イエスが見過ごされなかった事を覚えたいと思います。見過ごされなかっただけではなく、その湧き出る涙を、留めて下さったのです。この所から、第一に主は、止めどもない涙を止めて下さる方。第二に主は、絶望への転落を止めて下さる方。第三に主は、喪失の連鎖を止めて下さる方、である事を覚えたいと思います。
まず第一に主は、止めどもない涙を止めて下さる方であります。
枯れる事のないような、溢れ出る涙というものがあります。読んで頂いたナインの町に住む、一人のやもめの一人息子が死んでしまったというのです。当時のイスラエルの男性中心社会で、御主人を亡くしたやもめというのは、非常に弱い立場にありました。あらゆる権利、保証もなく、仕事にも就けず、収入の望みは家長となる息子に託されていたのです。災いは神の裁きと見られ、やもめは絶えず肩身の狭い思いをさせられていたのです。ですから、やもめにとっては、息子は命のような存在なのです。しかも一人息子となれば、それはやもめの心そのもの、やもめの心臓のような存在と言えたでしょう。その一人息子に先立たれたのです。バークレーという学者は、ここに世界中の悲しみが集約されていると、記しています。
ですから、町の人が大勢付き添っていたのは、それほどこのやもめが、憐れであったという事ではないかとも思います。あらゆる面で、何重にも、耐えがたい痛みが、この母親を打ちのめしていたのです。まさに泣いても泣ききれない、しかし泣くしか出来ない、今や涙を流すためだけに、辛うじて生きていたのが、この母親ではなかったかと思います。
その母親が、棺にすがりつくような思いで町の門を出た時でした。これから墓に葬られる訳で、そうなれば顔を見る事も出来ないのです。再び母親の涙が溢れそうになったその時、「ちょうど」と記されていますが、原文では「見よ」という言葉です。主イエスが、まさに門に近づかれた時であったのです。神様の世界では偶然はありません。神様は、このやもめの涙をご存知でありました。そして主イエスご自身が、その母親の涙に触れられたのです。
13節、「主はこの母親を見て、憐れに思い」とあります。この「憐れに思い」という言葉は、実際はもっと強い言葉で、胸が張り裂けるような共感で一杯になったという言葉です。主イエスは、その涙の元をご存知でありました。他の誰よりも、涙の元を知っていて下さり、共に痛んで下さる、それだけでもこの母親にとって小さな事ではなかったと思います。しかし、主イエスが続けて言われた事が、「もう泣かなくともよい」という言葉であったのです。
これは本来、誰も言えない言葉であります。泣くなと言っても無理ですし、それさえ出来なければ、生きてもいけなかったのがこの母親であったのです。しかし主イエスは、その測り知れない痛みをご存知の上で、その根底をひっくり返すかのように、「もう泣かなくともよい」と語られたのです。ここで大事な事は、主イエスはそのような事を言わなくても、黙って、ただこの息子を生き返らせる事も出来たのです。そうすれば、そのような事を言わなくても、この母親の涙は止まったのです。それで済んだのです。
では何故主は、そのような事を言われたのか、それが大事です。もし主イエスが、語られていなければどうなったでしょう。例え息子が生き返ったとして、その後二度と試練はやってこないと言えたでしょうか。世界は尚も、戦争、飢饉、災害に溢れ、親子が涙する試練が無いとは決して言えない世界なのです。しかしこの母親の心には、主イエスの言葉が刻まれたのです。「もう泣かなくてもよい」。もう泣くしか出来ない、どうしようもない涙に暮れる事がこれからあっても、この母親は「もう泣かなくてもよい」と言って下さる方を思い出せたのです。
世から見捨てられたような、最も弱い者の痛みに心震わせ、「もう泣かなくてもよい」と言って、涙しなくてもよいようにして下さる方がおられる。この親子は、この主イエスの存在の故に希望を持つ事が出来たのではないでしょうか。
そして第二に覚えたい事は、主は絶望への転落を止めて下さる方であるという事です。
この息子の命が絶たれた時、この母親が絶望の淵に落ちていくのを、最早誰も止める事は出来ませんでした。そして墓場に向かう、この棺の行進を、誰も止める事が出来なかったです。実際、死者や棺は汚れたものとされ、部外者の者が触れる事は許されていなかったのです。
しかし主イエスは、14節「近づいて棺に手を触れられると」とあるのです。主は近づき得ない所に近づいて、人には止め得ない、絶望の淵への転落を止めて下さる方であります。そして言われるのです。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。死んでいるのですから、聞く事など出来ないのです。死んだら、全ては手遅れなのです。取り返しがつかないのです。
淀橋の隣の大久保駅にも、ホームに転落防止自動ドアが付いたのですが、人間が出来るのは転落しないようにするだけで、電車が来た時、転落したなら最早手遅れなのです。誰も止めれず、取り返しがつかないのです。世の中には、取り返しがつかない悲哀が溢れています。格差は広がるばかりで、人と人の繋がりも益々希薄になってきている末の世です。転落したなら、奈落の底まで、落ちるしかないのが、今の世ではないでしょうか。
しかしそのような世であっても、主イエスにあっては、取り返しのつかない手遅れはないのです。人間にはあります。ですから絶望するのです。しかし主イエスは、死人に声を掛けられ、そして15節「死人は起き上がってものを言い始めた」とあるのです。主イエスの御言葉には、死人さえ応答したのです。それは主の御言葉こそ、無から有を呼び出し、無から命を創造し、全てを生かし、支えている命の御言葉であったからであります。
私達は、滅びに向っている目に見える世界ではなしに、主の御言葉の世界に目を留めていく必要があります。その主の御言葉は、死人をも生かすのです。もう落ちるしかない、取り返しのつかない手遅れの中、その人自身に何の希望がなくても、主ご自身に力があり、その御言葉に命があるのです。
そしてそれは、その御言葉が十字架の言葉でもあるからです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント1:18)とあります。主の御言葉は、ご自身の十字架の愛と血潮が注がれて確かなものとされた、主の命の御言葉でもあります。小説「塩狩峠」で、暴走する最早誰も止められない客車を止めたのは、長野政雄さんという実在者の尊い犠牲でありました。誰も止め得ない暴走を止める事が出来たのは、純粋な愛によって献げられた尊い命の犠牲であったのです。本間義信先生がかつて、神の御子が十字架に御自身を献げて、御自身の身をもって地獄という奈落の底の穴に蓋をされたと語っておられたのを思いだします。
ヨハネ12:24に、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」とあります。種のままでは、流されるしか出来ないのです。しかし小さな種も死ぬ時、命が芽生え、根が張り、流されずに留まり、流れさえ変える事が出来るのです。主の十字架の愛に止め得ない、どんな滅びへの暴走、絶望への転落もないことを覚えたいと思います。
第三に主は更に、喪失の連鎖を止めて下さる方であります。
このやもめは、まずご主人を失い、幸せを失い、社会的、経済的、あらゆる権利と保証を失い、その上唯一の希望であり、喜びであった一人息子を失う時に、最早全てを失ったとしか言えない、喪失感に打ちのめされていたのです。これほどまでに奪われ、失うならば、最初からこの命も人生も何も持たない方が良かったと思わされていたかもしれません。この母親の詳しい情況はわかりませんが、しかし御主人を失った時に多くを失い、一人息子を失った時に全てを失い、喪失が喪失を呼び、人生を支配していったと言えるのではないかと思います。
世では、持てる事が幸せであって、持つ事に必死になります。そして持てる者は、益々持つようになりますが、しかし持たない者は、一つ失うならば、連鎖するかのように次々に失ってしまう事が、不思議に多いのではないでしょうか。それは世が競争社会であるが故と共に、失う度に全てを失ったかのように、喪失感や恐れに縛られてしまい、自分に囚われてしまうからかもしれません。そして自分に囚われれば囚われるほど、失ったものしか見えなくなり、持っているものさえ見失ってしまいやすく、世の競争からも脱落するのです。
あのアダムとエバが、更に得ようと禁断の木の実に手を出して以来、人間は全てを失ってしまい、喪失の呪いに捕えられたのです。一つ失えば、取り戻そうとして、次々失い。得ようとすればするほど、結局全てを失っていくのです。そしてそれは人間が、全ての与え主であり、命の源から離れてしまったからなのです。与え主、源から離れたなら、最早失うしかないのです。
しかし15節こうあります。「イエスは息子をその母親にお返しになった」。これは原文では、息子をその母親に与えられた、という言葉なのです。主は与え主として、改めて息子を母親に与えられたのです。そして与え主、命の源としての御自身を示しておられるのです。
そして主が、新しい別の息子を与えられたのではないという事は、主が死んだ息子を、買い戻して下さった、贖い取って下さったという事なのです。何を代価にされたのでしょう。それこそ与え主なる主が、御自身の命をも与えて、その息子を買い戻し、取り戻して下さったのです。
人々は「神はその民を心にかけてくださった」と言いましたが、直訳するなら「神が、その民を訪れて下さった」という事です。そしてまさに主イエスは、神として、それも与え主、命の源、贖い主として、この最も憐れなやもめの所に来て下さったのです。
「あなたは確かに全てを失ったかもしれない。しかし私も、あなたのために命を、全てを失ったよ。失ったあなたに、全てを与えるためだよ。あなたが全てを取り戻して、全てを新しくするために、私があなた自身を贖い、私の全てをあなたに与えよう」。主はこう語って、喪失の崖を転がり落ちて生ける屍になってしまった、この母親に寄り添っておられるのです。
そして何より、その主ご自身こそ、私達への愛の故に、まさに全てを失われた方であるのです。主は、神の身分と特権を捨てられ、無きに等しい小さな赤ちゃんになられ、豊かさを失い、居場所を失い、家族を失い、友を失い、「多くの痛みを負い、病を知っている」とイザヤ書(53:3)ありますので、健康をも失われた事でしょう。何より、裏切られ、見捨てられ、十字架において、主はあらゆるものを失われたのです。そして天の御父は、十字架において、その独り子を失われたのです。最も多くを失い、最も深い喪失を味合われたのは神ご自身でありました。
しかしそれは何より、愛する私達一人一人を失わないためであったのです。私達が失われないため、私達が本当の喪失を味合わないため、私達が贖われ買い取られ、全てが回復され、全てが与えられるためであったのです。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ8:32)とあります。まさに主イエスこそ、罪の故に全てを失わなければならない私達の、喪失の身代わりになって下さった方なのです。世にあっては、確かに様々な喪失を私達は経験するかもしれません。しかし主イエスにある私達にとって、最早喪失が連鎖し、それが本当の喪失となっていく事は決してないのです。
そして主イエスが、あの十字架の上での本当の喪失を背負って下さった故に、私達は天の御国において、全てを永遠に回復して頂けるのです。主の十字架の愛は、私達の尽きない涙を止めて下さり、落ち行くしかない転落を止めて下さり、喪失の連鎖を止めて下さるばかりか、全てを新しくして下さるのです。
やがての世の終わりには、それが明確になります。黙示録21:1-4にはこうあります。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。』
神が全てを新しくされて、まず何をして下さるかといって、それは私達の涙を拭って下さる事だというのです。そして涙を拭って下さる事をもって、御自身の御臨在と、決して変わらないその慈しみを現わして下さっているのです。更に続く21:4-5には、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と記されています。
「もはや死はなく」とあります。最も恐れられている死、奈落の底への転落は最早ないのです。「もはや悲しみも嘆きも労苦もない」。絶望の淵に陥る事もないのです。
そして22:1―3には、「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。」とあります。もはや、呪われるべきものは何一つなく、命の水の川が流れ、命の木、命の実が溢れていくのです。つまり、最早喪失はあり得ないといえるのです。
世は、悲しみと絶望、喪失に満ちています。しかし人間はそのために創られたのではありません。私達が招かれているのは、この主の愛の御国であります。主イエスは、この愛の御国をもって、この母親に近づいて下さったのです。この母親が、主イエスに求めたのではないのです。主イエスの方から近づいて下さったのです。そして御声を掛け、御手を伸ばして下さったのです。そしてこの母親は、その主の語られた御言葉と、その伸ばされた御手を、ただ受け入れただけであります。その主の愛の御国に心開いたのです。その時、この母親は確かに地上では、やもめであったかもしれませんが、かけがえのない神の家族の一員、主の愛の御国の永遠の住人にされていったのです。
主イエスは、私達にも既に近づいて下さっています。御声を掛け、御手を差し伸べて下さっているのです。開かれた聖書の御言葉に心開き、私に語られて御言葉として受け止めて、主の御手に委ねて行きましょう。その時私達は、涙を拭って下さる主イエスの御臨在を経験するばかりか、失ってしまったと思っていた全てのものを、主にあってもう一度与えられる、買い戻される、主の贖いの恵みに与ることが出来るのです。それは、この主の贖いの愛に与る時に、この主イエスの愛こそ、私達が何を失っても決して失い得ないものであって、この愛を持つこと、否、この愛に所有されている事こそが、私達に最も幸いな事である事がわかるからであります。
イ・チソンさんという方をご存知でしょうか。女子大生であった頃、泥酔した車に突っ込まれて事故に遭い、大火傷を負って九死に一生を得たものの、美しい姿は最早失われ、醜い障害者になってしまいます。
よくそんな姿で生きていられるのと、後ろ指を指されるような中でしたが、チソンさんは、そのような中で家族の愛に支えられ、何より、激痛を伴う大変な皮膚の移植手術を受けていったのですが、苦しみ抜く中で、自らの存在というものの価値、神ご自身が十字架の苦悩をもって現わされた愛というものが本当にわかっていったのです。そして元の姿に戻りたいかと聞かれても、戻りたくない、と答えるまでに、何もかも失ったような自分を愛し、そして加害者をも赦す心を持てたのです。
実はその事故の時にお兄さんも一緒にいたのですが、お兄さんは妹を守れなかった事でずっと自分を責めておられたんです。しかしそのお兄さんがこう言っています。「かつて自分は、自分が持っているものに執着していた。人、物、時間、思い出など。しかし事故を初め、事故前には一度もなかったのに、二度も泥棒に入られ、それまであれほど大切にし、守り抜く事が出来ると考えていた多くのものを失った。しかしそれによって、それらのものが本当は自分のものでなかったことを悟った。自分がこの地で持つことができるのもの、それは自分の体でも、自分の宝物でも、自分の運命でもない。神が常に共におられるという信仰を持つ時初めて、自分がこの地で守ることの出来るものを持つことが出来るのだ。そのような信仰がチソンにあったおかげで、この困難を乗り切る事が出来た」というのです。
私達にとって最も大切なものこそ、それこそ何があっても最早失い得ないものなのです。私達が余りに永遠でない世のものに心奪われる事が問題なのです。御子の命によって私達を買い取って下さった神の愛、これこそ決して失われ得ない私達の命であります。その命の御言葉に心開いて、主の御愛に委ねていきましょう。