<使徒5:27-32>
27 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」
今日は、私達の先輩たちが、戦時下において被りました「6.26ホーリネス弾圧事件」が起ってから、丁度80年になる聖日となりました。午後には、淀橋教会において講演会、聖会と持たれます。
今の時代、最早戦争、迫害などはないなどと私達は思う訳ですが、今日世界ではそれが現実となっている事を、私達はしっかり覚えなければならないと思います。そして教会の歴史は、その迫害の中でこそ成長してきた事実も、私達は忘れてはならない訳です。
今日は、初代教会が最初の迫害を受けた所なのですが、初代教会がどのように迫害をものともせずに成長してきたかを覚えたいと思います。その力は、やがて天下のローマ帝国をもひっくり返していくほどのものでありました。しかし、初代教会の弟子達が何を持っていたかといって、彼ら自体は弱さしか持っていなかったのです。しかしその彼らが、神の愛に抱かれた時に、その弱さは、神の御前で「従順」という大いなる力を生んでいったのです。
それは世では愚かでありますが、神様にあっては、愛による従順ほど大いなる力はありません。今日は
使徒4章、5章を見ながら、第一に「従順に伴う愛の権威」、第二に「従順に満ち溢れる愛の霊」、第三に「従順が齎す愛の喜び」という事を覚えたいと思います。
まず第一に「従順に伴う権威」という事ですが、3章でペトロ達が、生まれながら足の不自由な人を癒し、集まってきた人々に第二の説教を語った時に、男だけで5千人の人達が信じていったという事が、4章に記されています。それを見た指導者達は、慌ててペトロ達を投獄し、翌日、大祭司や議員、長老、律法学者達という、そうそうたるメンバーが集まって、彼らを尋問します。
4:7にこうあります。「使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した」。「ああいうこと」とは、生まれながら足の不自由な人の癒しでありました。彼らは、癒し自体を罰するすべがなかったので、その癒しの権威、彼らの信仰の正当性というものを問うてきたわけです。そして「このお前たちは」という呼びかけには、幾分「お前らのような者が」という軽蔑が含まれていました。つまり自分達こそ、神からの権威を授かった権威者なのだと、ペトロ達を力で脅そうとしたのです。
しかしペトロは、聖霊に満たされてはっきりと、この奇跡は、「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるもの」と証しします。それも詩編118:22の御言葉を引用しながら、12節「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」と明言するのです。
律法学者達は、膨大な言い伝えと様々な律法の解釈を説明できても、彼らは救いの道を、決して明言はできなかったのです。にも拘らず、そのような学問もした事もないような一人の庶民が、誰もが怖気づくようなこの場で、落ち着き払って余りに大胆に明快に語る態度に、彼らは驚嘆したのです。
そしてこうあります。13節、「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった」。
「イエスと一緒にいた者であるということも分かった」とあるのです。ある英訳は「イエスの仲間である事を認めた」と訳しているようです。要するに、無学の者がこれだけ語れる事に驚いたけれども、そもそもイエスがそうであったのであって、イエスの不思議な力、天的な権威と同じものを、彼らの内にも認めざるを得なかった、という事なのです。
ではなぜペトロ達は、そのような力、権威を持ち得たのか。ペトロ達が聖霊に満たされていたからと言える訳ですが、この後の指導者達の脅しに対して、ペトロがこう答えているのです。19節、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」。ここの「従う」という言葉は、「聞き従う」という言葉なのですが、ペトロ達はとにかく、人を恐れて、人の言葉に動かされているのではなかったのです。世の権力者たちは、恐れで人を動かし、従順にさせようとしますが、恐れによる従順には脆さが伴います。それはその従順が、いつも表面的で、心からのものではないからです。しかしペトロ達は、聖霊によって、神の愛に動かされていたのです。その愛による従順には、愛の権威が伴うのです。それは愛というものが、神から出ているからであり、あらゆるものを生かし貫き、そして動かしていく、何ものをも恐れない、最も大いなる力であるからです。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(Ⅰヨハネ4:18)とあります。
ペトロ達は、5章においても再び投獄されますが、天使に助け出され、尚もひるむことなく宣教していきます。そして尚も再び捕まって尋問されるのですが、その時も5:29でこう語っています。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」。この文は原文では、「人間より、むしろ神にこそ従わなければなりません。そうせざるをえないのです。それ以外にないのです。」というような強い意味合い文章なのです。ここの「しなくてはなりません、ねばなりません」というギリシャ語は、特に神が人間を愛するが故に、こうしなければならない、という神の愛の必然を表す時の言葉でもあって、主イエスが十字架に掛からねばならない、という時にも使われている言葉なのです。ですからペトロ達は、単に自分の義務感で、従わねばならないと言っているのではなくて、ペトロ達がそのような一方的な神様の愛に捕えられ、その愛の故に、自分達もまた、神に従順にならざるを得なかったのです。そしてその愛の従順が、彼らを何をも恐れない大胆さに満たし、天来の権威、愛の権威に与らせていったのです。そしてその愛の従順が、そのような執拗な迫害の中でも、教会を疲弊させるどころか、更に命で満たさせ、生ける主を証しさせていったのです。
あの宗教改革者のマルチン・ルターは、たった一人で、当時の世界を牛耳っていたカトリックに立ち向かい、国会でやはり尋問されますが、彼は「私の心は神の言葉に捕えられているので、こうせざるを得ない、我ここに立つ、神よ助け給え」と語りました。ルターもまた、神の言葉、その愛に捕えられ、その愛の従順が、ルターに天来の力を与えていったと言えるのではないかと思います。
世の力の只中にあって、私達は本当に小さな無力な存在です。しかしそのような者に注がれた神の愛を感謝し、その愛に身を任せ、抱かれていく時に、その愛が私達を、愛の従順に与らせます。そして世のいかななる圧力、困難をもものともせずに、天来の権威、愛の権威をもって、主の従っていく、主の証人としていくのです。ペトロ達は、主イエスを見捨てて逃げた人達でありました。しかし彼らも、そのような自分達に注がれた主の御愛に、身を委ね、従順にお従いする事は出来るのです。小さな私達ですが、私達もこの愛の従順に与らせて頂いて、世に流される者ではなく、愛の権威をもって主にお従いしていく者とならせて頂きましょう。
第二に「従順に満ち溢れる愛の霊」という事を覚えたいと思います。ペトロ達が、そのような力強い愛の従順に導かれたのは、ペトロ達が、聖霊という愛の霊に満たされたからでもあります。この聖霊こそ、神の愛を悟らせ、神の愛で満たし、愛の従順に至らせる、神の愛そのものである方です。このペトロ達弟子達を創り変えていった神の愛は、この聖霊によって、この弟子を捕え、弟子達内に宿り、満ち溢れていったのです。
弟子達が、自分の力で主イエスに従って行こうとした時には、彼らは主の御愛を悟る事も、その愛に応える事も出来ませんでした。そればかりか、主を見捨てて、裏切っていってしまったのです。その弟子達が、そのまま堕落せず、自暴自棄になる事もなく、立ち直って、新たに主に従えるようになったのは、そのような彼らにも拘らず、尚もいや増しに注がれ尽くしていった主の御愛の故でありました。その愛が、彼らを遜らせ、素直にさせ、自らの無力さ、罪を認めて、砕かれた空の心をもって、自らを主に委ね、献げるように彼らを導いていったのです。
そしてそのような従順こそ、主ご自身が待っていたところの愛の従順であったのです。弟子達の愛の従順が、どこから始まっていったかというと、それは彼らが、自分の力では従えない自分の無力を認めて、何もない空っぽの心を、まず神様に無条件に委ね明け渡して、主ご自身を慕い求めていったところから始まりました。そしてそのような祈りを献げる中に、聖霊が彼らの心に降られ、満ち溢れていったのです。
先ほどの5:32の所には、「神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊」という言葉が出てきます。
聖霊は、ご自分に従う人達にこそ注がれたのですが、そのご自身に従う人達こそ、自分の力で神に従える人達ではなくて、従えない自らを覚えて、主の御愛に自らを委ね明け渡していく人達の事なのです。そのように神の愛のみ寄り頼んで、従順に自らを委ねていく者にこそ、神はご自身の聖霊を降されるのです。
そしてその聖霊こそ、御子の霊であって、その霊こそが従順の霊なのです。つまり御子こそ、ご自分の力を捨てられて、無力の只中を愛の従順をもって、御父にどこまでも導かれていった方なのです。
ヘブライ5:7―10にはこうあります。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」
ここに、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」とあります。キリストほど従順な方はありません。しかしキリストが苦難を通して、ご自分のものとしていかれた特別な従順があったのです。それこそ愛の従順です。
更に「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」とあります。そして主イエスは、あのゲツセマネにおいてまさに「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」られたのです。そして主は確かに、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」(マルコ14:36)と祈られたのです。
しかしその杯、つまり十字架は取りのけられなかったのです。では何故、このヘブライ5:7で「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」と記されているのでしょう。それは主イエスが本当に願われ、祈られたのが、十字架を避ける事ではなかったからです。あのゲツセマネの祈りでは、主イエスはこう祈られているのです。
「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。これこそが、主イエスが「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら」、魂の底から祈られた願いであり、祈りであったのです。一切を超えて、ただ愛する御父の愛の最善がなされるように。それこそが主イエスの祈りであったのです。そしてその祈りが聞き入れられて、十字架の贖いが実現し、私達罪びとの救いが完成したのです。
「そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」とヘブライ5:9にあります。要するに、私達罪びとは何も出来ないのです。主の御愛にただ心開いて、ただ身を任せて、ただその御愛に従順についていく事しか出来ないのです。しかしどんな無力な愚かな者も、この主の御愛に従順な者が、救われ、天国にまで主に従って行けるように、主ご自身が「愛の従順」という天国への道を拓いて下さったのです。
世では、今や従順ほど愚かなものはないかもしれません。しかし、御子自らが最も愚かな愛の従順、どこまでも愛一つに身を献げ抜かれて、十字架にまで至って下さったのです。
フィリピ2:6―8にこうあります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。
従順の道をいち早く捨て去って堕落したのが天使がサタンであり、サタンに唆されて、従順の道を逸れてしまったのがアダムやエバでありました。しかし神の御子が、ご自身を献げ尽くして、十字架にまで至る愛の従順を貫いて下さり、復活の勝利の栄光を従順というものに与えて下さったのです。その御子の霊が聖霊であって、その御子の霊が弟子達の内に宿られるからこそ、あの弟子達が神に従えるようになり、愛の従順を全う出来るようになったのです。
私達も小さな弱い存在ですが、主の愛に自らを委ねて、この御子の愛の御霊に与らせて頂いて、私達も神の愛一つに、どこまでも従順に生かされていく者とならせて頂きましょう。
第三に、「従順がもたらす愛の喜び」という事を覚えたいと思いますが、使徒達は再度の尋問を受けた後に、本来なら殺されるところでした。しかし、神様が御介入下さって、律法学者の長老、ガマリエルの進言で、難を逃れます。しかし鞭で打たれて脅され、そして釈放されるのです。使徒達は今迄二度に亘って投獄されましたが、鞭打たれたのは初めてでした。
しかし使徒達は41節、42節でこういっています。「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」とあるのです。
使徒達は、釈放されたから喜んだのではありません。「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」とあります。「辱めを受ける」とは、「正しい、正当な扱いを受けずに、卑しめられた」という事です。普通、人は正当な扱いをされず、自分自身が傷つけられる時、その傷から怒りや、憎しみや、恐れ、自分を守ろうとする様々な感情が湧き出ます。それを表に出さなかったとして、その感情はどこかで爆発します。自分を拠り所としている心とは、そういうものです。
しかし、使徒達の心は違っていました。お母さんが大好きな子どもというのは、もし自分の母親が馬鹿にされるような事があるなら、自分が馬鹿にされるよりも傷付いて、黙っていられなくなります。その子どもの心の拠り所が母親であって、その子どもにとっては、自分がどうのこうのよりも、母親との絆こそが大事であるからです。
そしてそれ以上に使徒達の心の拠り所が、主イエスであったのです。使徒達とっては、自分自身がどう扱われたかよりも、主イエスとの関係こそが大事であったのです。そして使徒達は、自分達がこれまで、どれだけ自己中心で自分の事しか考えられない、主イエスを裏切る者であったかよく分かっていました。そしてまた、そんな自分達があり得ないほどに、如何に主イエスに愛されて、その愛で救われたかを知っていたのです。
ですからそのような弟子達にとって、自分達が最早自分の事で苦しむのではなくて、自分達が主イエスの事で苦しむ事が出来た、主のための苦難を少しでも担う者とされた、それが嬉しく嬉しくて仕方がなかったのです。そして、肉の赴くままに、自分勝手生きる虚しさではなしに、生ける主の愛に、ただ従順にお従いしていく中に与えられる、充実感、躍動感、命の喜びというものを使徒達は感じたのではないか思うのです。人間は、まさにこのためにこそ創られ、この喜びを回復させるために、愛の御霊、従順の霊が使徒達に降ったのです。
異邦人の使徒とされたパウロも語っています。コロサイ1:24、「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」。パウロも、主のために、そして愛する者のために苦しむ事が喜びであったのです。
私達も小さな弱い自己中心な存在ですが、この神の命、愛の御霊に生かされる時に、私達も、自分がどう扱われようと、愛する者のために苦しむ事が喜びとなるような者に、変わらせて頂けることを感謝しましょう。
この80年前の6月26日の早朝、私達の先輩達が時の政府から弾圧を受け、ホーリネス諸派の130名を越える教職者たちが一斉検挙され、350の教会は解散させられ、結局7名を数える殉教者が出たのです。
淀橋教会の先代の小原十三司先生も、劣悪な留置場に入れられ、奥様の鈴子先生は心配しておられたそうです。しかし面会を許された時、小原先生を一目見て心配は吹き飛んだそうです。まさに「神共に在す」山から降りてきたモーセの顔の輝きのようなものが漂っていたと記されています。キリストへの愛の従順に生きる者に漂う、愛の権威というものがあったのではないかと思います。
その小原先生の獄中からの手紙に、こういう文章があります。「太古の大聖徒が神の民と共に苦しむことを願ったとあるが、私も誰かと共に苦しんでいることを思い出しては、忍びて倦まざる決心を新たにしおり候えば、心安んじて御祷告下さるよう願い上げ候。忍耐の徳!また大いなるかな!夜の感想は同感に候。しかしいかなる夢を見ようと、気がついたら、いつか書いた、『いかなる時にも霊に満たされ、何事も自ら計らわじ、すべてのことただ聖旨に従わん』と繰り返しては安き眠りの与えられるようつとめております」。『いかなる時にも霊に満たされ、何事も自ら計らわじ、すべてのことただ聖旨に従わん』とありますが、小原先生もただ御霊に頼って、従順に導かれていたのです。
そして有名な、「朝には、今日もまた、いたく勝れる御心が、なされる事を我は信ずる、と。夕には、なされし事を我は信ずる、と。平凡な日、期待に添わざるように思う日も、信仰のみはかく叫ぶ感謝する次第に候」と記されています。そしてこうも記されています。「いつでも泉の如くありたいと願っております。冬凍らず、春濁らず、夏枯れず、秋も流れて進む大河の如く、聖霊に満たされていたいものです。
生死とも、聖手にまかせし、見の軽さ。
心安かれと、御声聴くなり。」
小原先生もこの苦難の中を、この愛の御霊に寄り頼み、ただ御霊に導かれて、信頼と感謝をもって、二年に亘る獄中を通り抜いていかれたのです。そしてその苦難を越えて与えられたビジョンが、千人会堂であって、旧会堂が実現し、そして峯野先生がそれを継いで、二千人会堂を実現していかれました。
弱く小さな私達ですが、同じ御霊を頂いているのです。私達はただお頼りして、ただお従いしていく事しか出来ませんが、それを何より喜んで下さる神様に感謝して、愛の従順の道を辿らせて頂きましょう。