<ヨハネ9:1-9>
1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5 わたしは、世にいる間、世の光である。」6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
最近は、悪い人が凶悪犯罪を犯すのではなくて、普通の人が、飛んでもない犯罪を犯してしまう事が多いように思います。要するに普通の人が、自暴自棄になって、どうせ死ぬなら多くの人を巻き添えにして、凶悪犯罪を犯して死のうと、凶器を振り回したり、ガソリンを撒いたり、発砲したりしてしまうようです。一方多くの人が、何と迷惑な事か、死にたいなら、自分だけで死ねばいいと、それまで自分と同じ普通の人であったその人達を、全く別の世界の悪人にしてしまうのであります。確かに大変な事をし、巻き添えを受けた方は当然悲惨なのですが、しかし事件を起こしてしまった人も悲惨であります。そして、それを他人事のように、ただ批評する世の人も、悲惨だと思わされないでしょうか。そして、コロナ禍の中で、誰もが孤立し、忘れ去られ、置き去りにされ、そして結局、弱い者が犠牲になってしまっているのが、今日の世の悲惨ではないかと思います。
最近何が増えているかと言って、女性、子供の自殺であり、そしてまた児童虐待件数です。今や、一週間に一人の割合で、子供が虐待死しています。しかし、これも氷山の一角で、まさに凶悪犯罪が日常化しているのがこの世であります。にも拘らず、マザー・テレサは「愛の反対は無関心です」と言いましたが、今日ほど、人々が自分の世界に終始し、互いに無関心になる一方、互いに競争し、批判し合い、争いあっている世界はないのではないかとも思います。
ですから、弱い者が犠牲になっていく訳です。確かに世の中自体は豊かになってきているかもしれません。しかし人間は、豊かになればなるほど、結局自己中心にしかなっていないのが現実ではないでしょうか。そして、そのような自己中心な心からは結局、「誰が悪いのか」と問い詰める、悪者探しの冷たい問いかけしか出て来ないのです。
先程、読んで頂きましたが、ある時、主イエスと弟子達の一行が、生まれながらの盲人が物乞いをしているところを通り、弟子達から「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」という問いが飛び出してきたのです。
当時、盲人等の障害者は、神に祝福されていない者として疎外されていて、マッサージ等の仕事も出来ない、物乞いしか出来なかったのです。そして、そういう人は決して少なくはなく、弟子達には見慣れた光景でもあったと思います。そして見慣れてしまうほど、昔も今も、世の中には不幸は溢れているのです。そして弟子達も、主イエスと一緒にいなければそのような問いかけをする事もなかったと思います。弟子達でさえ、実はそれほど無関心であったのです。
つまり自分の世界以外に関心がないという、自己中心の中にあったのです。そしてそのような自己中心な心で、他人事のように生まれながらの盲人を眺め、「善人が祝福され、悪人が災いに遭う」という当時の教えを当てはめ、これは不幸だ、罪の結果だと決めつける時に、では誰の罪なのか、という疑問が出てきたのです。本人の罪か、親の罪か、本人の罪なら胎児の時か。胎児が一体何をしたのか。親の罪なら母親か、それとも父親か。しかし全て、飛躍した机上論でしかないのです。
まず第一に覚えたい事は、悪者捜しをする虚しさです。
不幸の原因、誰が悪いのか、何が悪いのか、という追求が、どうでもいいという事ではありません。しかし、それで不幸が解消するかというと、そうはならないのです。誰かのせいで、愛する者が命を落とすというような大変な不幸があったとして、その誰かを突き止め、裁きを受けさせる事は大切でしょう。しかし、それで愛する者が返ってくる訳ではなく、不幸が解消する訳ではないのです。犯罪者を裁き、刑務所に送ったとして、全てが解決する訳でなく、犯罪者皆が、それで更生できる訳では決してないのです。日本でさえ約半数は再犯者になります。ですから刑務所では、私のような教誨師という働きもある訳です。
そして問題は、明らかに犯罪によらなくても、不幸は幾らでも生まれ、人間はとかくそういう不幸を、誰かのせい、何かのせいにして、解決しようとするのです。しかし、あの人のせいで、この人がいなかったら、あれがなければ、この事のために、と色々と責めあぐねた挙句、余計に不幸になっていくしかないのではないでしょうか。
そもそも生まれながらの目の障害自体は、罪の結果とは限らないのです。それどころか、本来関係ないのです。障害者が罪人なのではありません、皆罪人なのです。しかしそれでも人間は、誰が悪いか、何をしたのか、しなかったのか、と批判し、悪者探しをするのです。そこに、人間自身の自己中心さ、罪深さがあるのです。
淀橋教会の近くで、戦争反対の運動一生懸命している人達がいるのですが、戦争を実際に体験し、痛みを通って来られた方々ほど、「戦争だけは絶対してはいけない」と言われつつ、不思議に、誰が悪い、何か悪いなど、他を批判されないように感じられるのは、興味深い事です。戦争で、人間そのもの罪深さを知るからかもしれません。
第一次世界大戦の時ですが、日本はドイツと戦い勝利し、多くのドイツ人捕虜の内1000人が、徳島の坂東、現在の鳴門市の捕虜収容所に送られてきました。捕虜達は皆、劣悪な環境や過酷な重労働を恐れていました。しかし入ってみると、収容所内では朝の点呼以外は比較的自由で、外出も出来て、商業活動が許され、商店街が出来、自分達の新聞を発行し、サッカー場、テニスコート、クリケット場、ボーリング場まであり、幾つかの楽団や合唱団まで出来たのです。
ある収容者の一人は、「世界のどこに、坂東のような収容所があっただろうか」と言っていますが、その坂東収容所の所長が、松江豊寿(とよひさ)という人でありました。この人は、戊辰戦争に敗れた会津藩士の子供で、苦汁をなめた父親の苦労をよく聞かされていました。やがて陸軍に入り、赴任地の韓国においては、韓国人達の苦悩を目の当たりにし、敗者、弱者の痛みを良く理解できる人であったのです。ですから、甘いと非難されながらも、捕虜を同じ人間として扱ったそうです。つまり、敵でありながら、彼らを悪者、自分とは全く別の卑しい存在とは見ていないのです。
ですから収容者達は、松江所長の信頼に応えようと、ある時、手作りの楽器や寄付された楽器を持ち寄ってオーケストラと合唱団で、感謝を込めて「第九」を演奏したそうです。そしてそれがアジアで「第九」の全曲演奏がされた最初だそうです。要するに松江所長は、収容所の所長でありながら悪者探しをしなかったのです。敵の彼らが悪いから自分達が不幸になる、彼らの悪さ次第で懲らしめる、ではなかったのです。結局、「誰が悪いのか」を止めた時、皆が良くなってきたという事ではないでしょうか。自己中心な「悪者探し」は、何の解決も生み出さないのです。
第二の事は、私自身はどうなのか。私は悪くないのか、私は不幸でないのか、という事です。
自己中心な心が、どんなに目を開いても見えないのが、自分の姿であります。確かにモーセが、神に従う者への祝福、神に背を向ける者への呪いを語っているので、人々は不幸、災いというは神の裁きであって、罪の結果なのだと考えていました。ですから、何か災いや不幸がないなら、自分は罪人ではないのであって、神に選ばれた選民の一人であると、イスラエルの民は皆、そう思っていたのだと思います。
そして弟子達も、そう思っていたでしょう。弟子達が、生まれつきの盲人を見た時、彼を自分達とは違う罪人、もしくは裁きの受刑者のように見ていた事だと思います。そうでなければ、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」などと、どうして本人の近くで言えるでしょうか。この盲人は、どれほど傷付いた事でしょうか。しかも「ラビ」と言って尋ねていますが、ラビというのは律法の教師の事で、そのような言い方でわざわざして、如何にも自分がラビの弟子である事を見せつけるかのような、何か優越感を持ったような言い方にも見えます。
しかし、この弟子達こそ、主の十字架の時には主イエスを裏切り、主イエスを見捨てて逃げて行って、ひたすら部屋に隠れていたような人たちであります。そしてペトロは、三度も主を否定し、イスカリオテのユダは、主を売り渡してしまいました。弟子達は皆、主イエスに選んで頂いた人達であって、最も最初のヨハネとアンデレも、バプテスマのヨハネに導かれて、主イエスの許に来た人たちでした。つまり彼らは、決して自分を誇る事の出来ない人達であったのです。そればかりか彼らもまた、正真正銘の罪人であったという事なのです。
イエス様は4,5節で、「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」と言われています。主イエスは、ご自身が光なのだと言っておられるので、「日のあるうちに」とは、主イエスがおられるうちは、という事です。「だれも働くことのできない夜が来る」というのは、主イエスが十字架に掛かられ、主イエスがおられない時が来るが、その時が夜であって、あなた達も何も出来なくなるよと、やがての弟子達の惨めな姿を、もしかすると暗示されているのかもしれません。
いずれにしても、主イエスがおられないなら、世は全く暗闇であって、世がどんなに華やかに明るくしていても、その自己中心な世界は暗闇でしかないのです。暗闇の中では何も見えないように、世の中では自分の本当の姿というものが、本当に分からないからです。世の中では、自分中心に人と比較したり、どうせ皆、自分と同じなんだと思い込んだり、自分を映す鏡がありません。しかも自分の見たくない面は全く蓋をして、自分で作った一面しか見ないのです。
ですから私も、聖書を読んだり、教会に来て人々の証しを聞くまで、自分ほど真面目で優しい人間はないと思っていました。しかし今日のように、クリスチャンの証しを聞くようになって初めてこういう世界があるのだと知るようになり、そしてある時、「人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる。」という聖書の言葉が心に示され、自分の心の値打ちというものを探られた時には、本当に如何に自分が惨めな、醜い存在なのかが、分かるようになってきたのです。
来月の下旬にはケズィック・コンベンションというクリスチャンの修養会がありますが、昔その委員長であった尾花晃という先生は、若い頃不良少年であった所から、救われてクリスチャンになられたそうです。しかし、どうしても愛せない人がいたというのです。それが実のお兄さんでありました。
クリスチャンは偽善者だと、大のキリスト教嫌いで、いつも迫害してきたそうです。そのお兄さんの為に断食して祈り、徹夜して祈っていたのですが、出刃包丁で脅されたり、聖書を穴だらけに刺し通されたり、殴り倒されたり、それは目に余るものでありました。特に他の家族までもが酷い目に遭うのを見ては、耐えがたい思いをしていたのです。尾花先生自身は何も悪い事をしていません。
当然お兄さんが悪いのです。しかし教会で主の御言葉に耳を傾けていた時、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(Ⅰヨハネ4:20)という御言葉が心に迫ってきたそうです。そして「お前は兄の為に祈っているといいながら、兄が早く死んでしまった方が、家は平和になると考えているのは、どうしたことか。お前の愛は嘘だ、偽善者だ」と示され、泣き崩れてしまったそうです。
そして尾花先生は、口も聞いてくれなくなっていたお兄さんの所に行って、自分こそ偽善者だったと告白するのです。そんな事を言えば何をされるか分からないのですが、正直に自分の姿を曝け出して赦しを乞うたところ、このお兄さんの方が泣き出し、詫びてきたのです。そしてこのお兄さんもクリスチャンになったそうです。
尾花先生は、聖書の御言葉を通して、本当の愛、純粋な心というものに照らされた時に、お兄さんだけが悪いのだと一方的に思っていたのですが、初めて自分の本当に姿を知られて、そしてそういう自分のために、あの十字架において、偽りのない純粋な愛を現わして下さった、主イエスの愛に捕えられるようになったのです。
第三に覚えたい事は、この主イエスの愛、私が悪いのです、と十字架に掛かられる愛であります。
主イエスは、弟子達のそのような問いかけにこう答えられます。3節、「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。主イエスは、ここでそのような障害、また不幸というものと、人間の罪を結び付けられませんでしたし、障害を不幸とも結びつけられなかったのです。主イエスが結び付けられたのは、ご自身による神の業だけであったのです。
しかし、それは決して罪を犯した事がない、罪がないと言われた訳でもなく、その盲人に何も苦労や困難がないと言われた訳でもないのです。目が見えない事を始め、障害というものは大変なものです。現代のようにそれなりに福祉というものがあっても大変ですのに、当時は疎外さえされていました。そこには確かに不幸としか思えない厳しい現実は確かにあるのです。そしてそれは、神が人間を創られた時にはなかったものであったのです。
そういう意味では、やはり人間の罪というものが背景にあるには違いないのです。人間の罪こそ、人間のあらゆる不幸の源であります。ただ、それを親が悪い、胎児の本人が悪かったなどと、自分の事を棚に上げて、自己中心に障害者を裁こうとするところに問題があるのです。誰、彼でなく、人間、皆が罪人なのです。
しかし主イエスは、天から来られた神の御子であって、そういう人間の罪を指摘出来る方であったのです。この生まれながらの盲人も、そして親も、決して完全無欠ではありません。やはり罪人の一人なのです。罪を犯してしまった事もあるのです。にも拘らず、主イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と言われたのです。
これまで呪われた罪人と見られ、自分もそう思い、自分を否定する事しか、出来ない人生ではなかったでしょうか。しかしそういう自分が、生まれて初めて肯定され、認められたのです。そして自分は罪によって生まれたのではない、とその存在が丸ごと受け入れられるばかりか、神の業のためのかけがえのいない存在だというのです。声に敏感な盲人が、この主の言葉を聞き漏らすはずはありません。彼は主の言葉に捕えられ、泥を塗られようが身を任せ、そして言われた通りシロアムの池で目を洗った時に、何と開かれた事のない目が開かれたのです。
何故、主がこのような事を言われ、このようなあり得ない事が起こったのか。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」という問いに対して、主が答えられたのは、こういう意味ではないかと思います。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもありません。私が罪を犯したのです。私が全ての不幸を背負います。その不幸を通して、私の十字架の愛が、神の恵みの業が、この人に現れるためなのです。」と主は語られたいのです。それは主イエスが、この生まれつきの盲人の本当の親、造り主であり、この人のために生まれ、この人のために遣わされた救い主、贖い主であるからなのです。そしてこの主イエスこそ、世の光であり、すべての源である愛そのものなる方であるからです。
それ故、主は私達一人一人にも語られているのです。「最早あなたの不幸は、あなたの罪の故でも、あなたの失敗の故でもない、まして誰かのせいでもない、私があの十字架で既に全てを背負ったからだよ。だからその不幸は、あなたから離れない私の愛、私の恵みで、あなたが覆われるためなのだ」。
この生まれながらの盲人は、結局目が見えるようになっても、当時の指導者達からは迫害されます。しかし主イエスは、もう一度この人に会って下さり、「あなたは人の子を信じるか」と、ただ目を癒されただけではなく、ご自身を自分の救い主、自分の神として信じるかと招かれ、この人に信仰に導かれていったのです。
主イエスは既にこう言われていました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(ヨハネ6:29)。この人は盲人であった故に、エルサレムの誰よりも不幸であった一人であったかもしれませんが、しかしその故にこそ、真の光である主イエスに結ばれる事が出来、エルサレムの誰よりも、主の御愛と恵みに輝く神の子の一人となる事が出来たのです。
野田詠氏という若い先生に会った事がありますが、十代の頃、暴走族に入り浸り、窃盗、暴力、覚醒剤と犯罪に手を染め、何度も鑑別所に送られながら益々悪くなって4度目には、少年院送りが確定したのですが、その時、判決を一緒に聞いていた詠氏先生のお母さんが恥も外聞も捨てて泣き叫んだそうです。「私の育て方が悪かったんです。この子を少年院に入れるんやったら代わりに私を刑務所に入れて下さい。私が悪かったんです。私のせいでこの子はこうなったんです」。
勿論それで判決は変わりませんし、このお母さんが悪かった訳ではありません。このお母さんは女手一つで苦労して詠氏先生を育てた訳で、詠氏先生自身が寂しさに負けて悪に走ってしまったんです。しかしそれでも母親の愛は、私が悪いのです、と叫ぶのです。そのお母さんの愛は、詠氏先生の心に深く刻まれ、やがて獄中の中で、クリスチャンになったご長男から差し入れられた聖書を読むようになり、祈るようになり、そして三浦綾子さんの塩狩峠を読んだ時に涙が溢れてきて、神の愛というものに出会っていくのです。そして苦労しながらも、献身して牧師になるのです。そして今や、同じような過ちの中にある若者達のために、この神の愛、十字架の愛を伝えているのです。
世の不幸の中で、人間自身は、誰が悪いのか、と悪者捜ししか出来ないかもしれません。しかし愛というものは違うのです。特に人間を創られ、尚も人間を負い求める十字架の愛は違うのです。神様は、私達を裁いてはおられないです。
神様は、私達の痛みを、ご自身で覆われたいのです。そのために御子をさえ与えて下さったのです。この御子を受入れて欲しいのです。そしてご自身の愛の御業を現わしたいのです。主イエスを、心の隅々にまでお迎えして参りましょう。