2022年5月1日 第一聖日礼拝「一緒に歩き始める、復活の主の愛」ルカ24:13-35、中村和司師

2022年5月1日 第一聖日礼拝「一緒に歩き始める、復活の主の愛」         中村和司師

<ルカ24:13-35>
13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14 この一切の出来事について話し合っていた。
15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

あの東日本大震災が起きてから、自然界が何かかつてとは違う、そんな時代になってきたと思わされているのではないかと思います。地震が多くなっただけでなく、異常気象、極端気象、集中豪雨も多くなり、自然災害が半端でありません。そしてウィズ・コロナの時代。日本も早くマスク無しの生活に戻りたいと思います。そしてウクライナでの戦争。単なる戦争というより、市民を巻き込んだ虐殺の様相を呈している訳です。要するに、最早世界は平和な時代を失って、聖書の預言通り、確実に末の世を迎えていると言えるのではないかと思います。
そのような不安材料の尽きない今日の世界にあって、今一番何が必要かといって、それは希望というものではないかと思います。何故なら、ともすると今日の世界は、希望というものを全く見いだせない世界になってきているからです。そして希望というものが全く見いだせない世界を、別名、地獄という訳です。どんな困難な中も、人間は希望があれば、希望に向って進んで行けます。しかし希望がないなら、進みようがないばかりか、最早耐え忍ぶ事も出来なくなるのです。
パウロは、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。」と言っていますが、希望は、信仰と愛と共に私達を生かす、最も大切なものの一つと言えます。この三つがある限り、私達は何があってもいつまでも生きていけるのです。そして試練、困難の中でこそ、その存在が益々輝いていくのが、希望であります。しかしもし希望がないなら、人間は益々まさに絶望という暗黒の淵に陥っていくしかないのです。
今日は、ルカ24:13以下の「エマオの途上」と言われる所を開かせて頂きましたが、ここにはまさに希望を失い、挫折し、暗黒の中に陥っていた二人の人の事が記されているのです。この二人は主イエスの弟子で、一人がクレオパという人であって、もう一人は兄弟か、或いは妻ではないかと思われます。そしてエマオにあった自宅に戻ろうとしていたのではないかと思われるのです。
丁度夕暮れで、エルサレムから西方のエマオに向って、沈む夕陽を前に二人は歩いていたのです。そして彼らの心自体も、暗黒の中に沈み込んでいたのです。それは主イエスの十字架の故でありましたが、21節で彼らはこう言っています。
「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」とあります。この二人は主イエスの十字架の故に、自分達の希望は最早跡形もなく砕かれてしまった、と語っているのです。彼らにとって望みは最早そこにしかなくて、まさにそこに「望みをかけて」いた、全てをかけていたのです。
にも拘らず、最悪の結果になったのです。あり得ない、最悪以外何ものでもない結果でありました。主イエスは呪われた重罪人として処刑され、その弟子であるという事も、最早人前で言えない状況であったのです。そして彼らは、何故こんな事になったのか、暗い顔で互いに、ただ議論し合う事しか出来なかったのです。しかし何も分かりません。そして主の遺体が無くなったという事になると、もう何が何だかわからなくて、もうお手上げの状態、頭を抱えるしかなかったのです。
眼前の夕陽は沈んでもまた昇ってきます。しかし彼らの希望の太陽は、もう二度と昇って来ないように思われたのです。皆さんは、二度と太陽が昇らない、朝が迎えられない、そのような日没を想像できるでしょうか。暗闇は深くなるばかりで、永遠の暗黒に落ち込んでいくのです。
ぞっとするような状況ですが、しかしそれは単なる仮定ではないのです。この世界に普通にあると思っているもの、しかしそれは決して、いつまでもあるものではないのです。「いつまでもあると思うな親と金」と俗に言われますが、しかし、親やお金だけでないのです。当たり前と思っている、暖かい日差し、心地よい風、美しく彩られる四季。しかしこの天体もやがて揺れ動き、崩れ去るものなのです。遠い将来と思っているかもしれません。しかし地球は既に、かつての地球ではなくなっています。そして何より、たとえ自然が崩れなくても、ひと度戦争が起こったなら、世界は一変するのです。ウクライナの方々の平和な日常、その普通の日々は、一瞬で奪われました。これで第三次世界大戦になったらどうなるのか。生物化学兵器、そして核兵器が使われたらどうなるのか。それは今や仮定ではなく、起こり得る現実の問題になってきているのです。これが今の世界なのです。
太陽が二度と昇らない日、そういう日が来るんだという事を、私達は忘れてはならないのです。つまり、世の太陽を当てにしてはならないのです。そこには希望はないのです。聖書は何といっているでしょう。
イザヤ60:19,20、「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず/月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり/あなたの神があなたの輝きとなられる。あなたの太陽は再び沈むことなく/あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり/あなたの嘆きの日々は終わる。」
「主は我らの太陽」という賛美をご存知でしょうか。この御言葉を歌ったような賛美ですが、ゲツセマネ祷告会で時々賛美していますので、まだ参加した事の無い方は、ぜひ一度参加して頂ければ感謝です。
その曲のさびの部分では、こういう歌詞になっています
「闇を照らすまこと光 尽きることのない太陽 高くかかげられる 主のみなを ほめたたえ
嘆きの日は 終わりを告げる 賛美のうた とわの光イエスに」
まさにイザヤ60:20 「あなたの太陽は再び沈むことなく/あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり/あなたの嘆きの日々は終わる。」という御言葉のままです。そして、この世界のあらゆるものが、太陽の光と熱に依存しているように、私達は真の太陽である主イエスご自身に、全面的に依存する事が出来るのです。そしてこの太陽は、最早決して沈まず、私達に付きまとう「嘆きの日々は終わる」、永遠に終わるというのです。
私達の太陽、希望は、主イエス・キリストご自身であります。そしてこのクレオパともう一人も、そうであったのですが、彼らは世の太陽を見るようにしか、主イエスを見ていないのです。そして決して沈まない希望である主イエスを、彼らはまだ知らなかったのです。
そして私達も、まだまだこの主イエスにある希望の素晴らしさを、まだまだ知らないではないかと思うのです。残りの時間この希望の主に目を留めつつ、第一に「私達に寄り添われる希望の主」、第二に「私達を御言葉に燃やされる希望の主」、そして第三には「私達の心を捕えられる希望の主」という事を覚えたいと思います。

第一には「私達に寄り添われる希望の主」という事です。13節~15節にこうあります。
「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」
特に15節、「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」とあるのです。13節には「ちょうどこの日」という言葉がありますが、原文を見ても15節にかけては、読者の注意を促すように、大事な事としてここは記されています。何故ならこれが、主イエスが十字架の死から復活されて、生きておられるという事の結果だからであり、そして、この二人の弟子達に近づかれ、この二人と、一緒に歩いておられるという事の故であります。
まず十字架の死からの復活、これこそ全てをひっくり返す、驚くべき事でありました。主イエスは要するに、問題の根底を覆して行かれる方であるのです。何故、主が最悪の十字架にまで降られたのか。最悪そのものをひっくり返していくためでありました。決して戻らないはずの時計の針を戻していく、否それ以上に、時の流れ、滅びに向かう流れ、全ての流れを、ひっくりかえすような逆転を成し遂げて、流れを変革させるためでありました。つまり地球上では、引力の故に全てのものは下に下にと流れていきますが、上へ上へと、引力に縛られない恵みの流れというものが生まれたのです。
しかし、折角主イエスが復活されても、16節にあるように、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」のでは、何にもならないように思えます。何故、目が遮られていたのかは不明です。彼らの鈍さの故か、弱さの故か、夕陽の逆光の故か、しかしどのような理由であれ、分からなかったなら万事休す。全ては意味なく、最早それで終わりなのです。つまり、世では全て本人次第だからです。気付かなかった本人が悪いのです。本人の責任なのです。しかし、それでも復活の主イエスは、この二人に近づいて一緒に歩き続けて下さったというのです。
そもそもこの二人は、12弟子でも何でもありません。そしてそれなりの人数がいたであろう、主の弟子達のほんの一部に過ぎません。しかし復活の主イエスは、この二人に、わざわざ近づいて下さったのです。何故でしょう。それはただ、彼らが絶望の中に、エルサレムの弟子の群れから、いち早く落ちこぼれていった、最も弱く小さな弟子達であったからかもしれません。要するに主の恵みの流れが、弱い所にこそ満ち溢れていたのです。この「近づいて来て」という原語は、「間近に迫る」という意味合いもあるほど、主はこの二人すぐ身近に迫って下さっていたのです。
そして「一緒に歩き始められた」とあります。一緒にその歩みを共有して下さっていたというのです。彼らが、気付こうが気付くまいが、主イエスはその歩みを共有して下さっていたのです。事実、主は彼らに語り掛け、そして彼らの一つ一つの言葉に、耳を傾けて下さっていたのです。復活の主ご自身は、聞かなくても、彼らの事をよくご存じなのです。しかし主は、彼らとその歩みを、その心を、共有なさりたいのです。実際、クレオパが話したような事は、聞かなくても分かる事なのです。しかし何故主が口を挟まず、じっと耳を傾けられたかと言って、彼らがそれをどう感じたか、どれだけ辛かったか、どれだけ不安だったか、恐れたか、その痛みを共用するためであったのです。
母親は、辛い所を通らされた我が子の思いを、分かっていても聞かないでしょうか。その言葉に耳を傾けないでしょうか。それが愛なのです。どうしていいか分からない、辛くて悲しくて涙が止めどもなく流れて、でも誰に言えず、震える自分の心を、必死で押さえつけるしか出来なかった、その心をどうして黙って見ている事が出来るのでしょう。十字架にまでかかるまでに、愛して下さった方が、どうして痛みと悲しみ、恐れのままに私達を捨てておられるような事があるでしょうか。主イエスは、そのためにこそ復活して下さったのです。私達にどこまでも近づいて一緒に歩んで下さるためです。

第二には、「私達を御言葉に燃やされる希望の主」という事を覚えたいと思います。主イエスは、クレオパ達の言葉に耳を傾け、その心を共有され、ご自分のものとされた後にこう言われます。
25節26節、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
主イエスは、彼らを責めておられるのではありません。彼らの思いを共有しながら、そのような彼らを憐れみ、彼らの所に身を置きながら、ではどうすればいいのか、何が大切なのかを語られたのです。「洞察力に欠けてしまい、鈍くなってしまった故に、結局、すべてを信じられない、それが問題なんだよ、御言葉のメシアに目を向けなさい」。主イエスは、そのように語っておられるのです。
そして「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と、主イエスは語っておられますが、鈍い彼らが、旧約に預言されたメシアの受難の意味を最初から理解していて、今は忘れていた、というのではないはずであります。「はずだったのではないか」と言って、彼らは自分の知識や理解では分からなかったでしょう。
しかしそれでも、彼らに分かる事があったのです。それこそここで「はず」と訳されている言葉です。神の必然、神の愛の熱情を現わしているギリシャ語です。十字架の預言、ザアカイ、サマリアの女、様々な所で用いられています。神がご自身の愛の故に、そうせねばならない、そうする事に定まっている、そう成し遂げられねばならない、その神の愛を現わす言葉なのです。
二人は、何が分からなくても、神の愛は分かっていたのです。何が分からなくても、主イエスの愛を、主イエスこそが救い主だと知っていたのです。ですから27節、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」時、彼らの心は燃えたんです。
預言の細かい意味は分からないかもしれない、何故こんな事になったのか、目に見える現実の意味は尚も理解できなかったかもしれない、しかし、それでも、それでも、主イエスは本当に救い主なんだ、神様なんだ、神様はどこまでも愛して下さっているんだ。神の愛が、神の真実が、彼らの心を燃やしたんです。
32節、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」とあります。
真っ暗な絶望の淵に落ち込んでいた、彼らの心が生き返ったんです。世界が変わったんです。私達の内に、何一つ燃えるようなものはなかったとしても、私達の心が御言葉を通して、キリストに満たされていく時、私達の心は燃えて輝きだすのです。神ご自身の燃える愛に、私達の心も燃やされるのです。

第三に、「私達の心を捕えられる希望の主」という事を心に留めたいと思います。主は、そのように御自身の愛をもって、私達の心を生かし、御言葉をもって私達を燃やして下さいます。そしてそのように天来の御言葉に与っていき、本物の愛とその命に触れていく時に、最早世のものでは、とてもその心が満たされなくなっていくのです。尚も御言葉を、御言葉の中の主ご自身を切に求めて飢え渇き、世の事は二の次になってくるのです。28,29節にこうあります。
「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」
最早何の気力もなかった二人が、その時の彼らにとっては見知らぬ人と思えた主イエスを、ただ御言葉への渇きの故に、無理に引き止めさせ、家に迎え入れさせたのです。かつてアダムとエバは、目に見える所に惹かれ、目の前の現実に流され、神の言葉を退けて、自らも神のようにと、禁断の実に手を出してしまった。
この二人は何でもない小さな弟子達です。目の前の人は見知らぬ人であり、尚も先へ行こうとされる様子であり、自分達は先へ行けない。それが現実でした。しかし彼らは小さな弟子達でしたが、その現実に流されないで、見える所ではなしに、無理を承知で、その魂の求める所に従って、その人を引き止め、御言葉を求めたのです。主ご自身を求めたのです。そしてそれこそ主の意図された事であり、神のご計画ではなかったでしょうか。彼らはアダムの失敗を繰り返しませんでした。主の御愛と御言葉が彼らを捕えていたからです。
主イエスもまた、嫌々家に入られたのでしょうか。30節、「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」とあります。主は、喜んで彼らの家に入られ、彼らの家を我が家として寛ぎ、食卓では家の主人のようにふるまわれ、まさにご自身を主として現されたのです。
そしてその時31節、「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」とあるのです。彼らは御言葉に捕えられ、その光の中にその人を迎え入れ、その生活の現場が御言葉の光で満ちた時、彼らはここに主がおられる、と主に出会ったのです。そしてそのように彼らが御言葉に捕えられ、御言葉の光の中に、主の臨在を悟るようになった時、彼らは最早肉眼で主を見る必要がなくなったのです。
そしてエルサレムから逃げ帰っていた二人も、「時を移さず」、闇夜を越えてエルサレムに戻ったのです。御言葉に捕えられ、御言葉に生かされていく事です。主イエスご自身、御言葉をもって悪魔の誘惑に勝利され、御言葉の故に十字架に向われ、救いを完成され、御言葉に生きられたのです。
「聖言うちひらくれば光をはなちて 愚かなるものをさとからしむ」(詩119:130文語訳)。私がホーリネス教団の聖会に初めて参加した時に、小林和夫先生が語っておられた御言葉です。更に先生は、ヨハネ19:28「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」という主イエス上の御言葉をあげながら、主イエスは御言葉が成就するために、十字架に掛かられたのだ、と語っておられました。
口語訳や新改訳は、「それは、聖書が全うされるためであった」とか、「聖書が成就するために」と訳されています。今私達は、直接主の十字架に触れる事は出来なくても、御言葉を通して、主の十字架そのものの御業に与ることが出来るのです。そして御言葉を通して、復活の主ご自身に出会い、復活の主に生かされることが出来るのです。
何が人を生かすのか。苦難が無くなれば、人は生きる事が出来るのか。違うのです。何がなくても、生きていけなくなるのが人間なのです。ただ神の愛が、神の言葉が人間を生かすのです。どんな苦難も御言葉を妨げる事はできません。エレミヤは苦難の中で、自分の力ではなく御言葉の力に生かされた預言者でした。
こう言っています。「主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」(エレミヤ20:9)
教会の苦難の歴史を何故、決して強くはない凡人キリスト者達が勝利して来れたのか。御言葉です。御言葉が人を生かしたのです。あのマルチンルターが、天下のカトリックを相手にたった一人で、何故命懸けの尋問に臨んだのか。彼は、自分の良心は神の言葉に捕えられている。それ故私はこれ以外に出来ない、我ここに立つ、神よ、助け給え、と有名な言葉を残しています。あらゆるものを越えて、御言葉が人を生かし、神の御業に与らせていったのです。
小さな私も、御言葉が臨んだ時に、死んでいた私が生かされたんです。それは理屈を超えた体験でした。御言葉をもって世界を創造された神様は、今も御言葉をもって新創造の御業をなしておられます。

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