2022年2月6日第一聖日礼拝「深みに漕ぎ出して」 中村和司
<ルカ5:1-11>
1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
最いよいよ2月を迎えました。寒さと、そしてオミクロン株のまん延で、本当に厳しい中にありますが、しかし寒さについては、確実に春に向って日も長くなっています。そしてコロナも、必ず収束がある事を覚えて、信頼をもって進んで参りましょう。
先週は、伝道礼拝という事でヨハネ福音書からお話しましたが、今年のイースターに向っては、ルカの福音書から、特にルカ特有の記事を取り上げながら、主イエスの地上生涯に目を留めていきたいと思っております。
今日は、弟子達を招かれた所ですが、この大漁の奇跡はルカ独特です。ヨハネや、アンデレは元々バプテスマのヨハネの教えを受けていて、バプテスマのヨハネの導きで、主イエスとは接点を持っていました。そしてアンデレの兄弟、ペトロも主イエスとは既に面識がありました。しかし彼らは、主イエスの弟子としてお従いしていた訳ではなく、漁師の生活をそのまま続けていたのです。そういう中で主イエスが、彼らを「深みに招く」という形で、彼らの人生を、主にお従いする弟子の歩みへと変えて行かれたのです。
今日はこの所から、第一に「試練の深みに漕ぎ出す」、第二に「御言葉の深みに漕ぎ出す」、第三に「恵みの深みに漕ぎ出す」という事を覚えたいと思います。
まず第一に、「試練の深みに漕ぎ出す」という事ですが、ここに記された大漁の奇跡自体は、4節の「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」という言葉が、発端になっています。そしてこの「沖」と訳された言葉が、本来「深い所」という意味の言葉であります。ですから新改訳聖書などは、「深み」と訳しています。そして弟子達にとっては、まず初めに何があったかというと、それこそかつてない不漁という試練があったのです。
5節のシモンというはペトロの事ですが、こう言っています。「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。漁というのは、日没や日の出に漁をする事が多いようですが、一晩ずっと漁をして、一匹も捕れなかったというのです。彼らは、地元で長年のプロの漁師です。そして歴史家のヨセフスという人によると、ゲネサレト湖では常時230隻もの漁船が活動するほど漁が盛んだったと言われています。このゲネサレト湖というのは、ガリラヤ湖とも言われ、南北に21キロ、東西に13キロで、それほど大きい訳ではありません。丁度、茨木の霞ヶ浦ほどの大きさです。そこに230隻も漁船が出るほど、魚が溢れていた湖であったわけです。
これは異常事態であった事でしょう。そして彼らにとっては生活がかかっていたかと思います。とはいえどうする事も出来ず、2節に「漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた」とあります。この時、彼らはいつなら魚を出荷するのに忙しいはずが、役立たなかった網の片づけを、落胆の内にしていたという事です。片づけをしながら、彼らは、湖に何か異変が起こったのだろうか、明日も捕れなかったら、どうすればいい、俺たちは生活をして行けるのだろうか、などと様々な不安が心をよぎっていった事だと思います。人間というものは想定外の事が起こると、とかく悪い方にばかり考えてしまうところがあるのではないでしょうか。
これはペトロやヨハネ達にとって、突然襲ってきた試練でありました。湖中の漁師も皆そうであったかもしれません。しかし、ペトロやヨハネ達に目を留められた方があったのです。1節に「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると」とあります。そして2節に「イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった」とあるのです。
何故、主イエスがゲネサレト湖畔に立っておられたのか、1節後半には「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」とあります。では何故、群衆が神の言葉を聞こうとして押し寄せて来ていたのか。それはやはり、神とその御心を求めていたという事が言えると思います。イスラエルの民は、神を信じる民でありました。しかし、その神は目に見えず、神の御心も中々分からないのです。そして、神を信じていても、国はローマ帝国に支配され、生活は益々苦しくなり、これから先どうなるか分からない。律法の教えも厳しく、意味もよく分からない。預言されているメシア、救世主は本当に来るのか、群衆にはそういう飢え渇きがあったのです。
ですから当時、イスラエルの民全体が、試練の中にあったと言えるのです。そして主イエスは、その試練の中にある群衆に、神の言葉を語っておられたのです。その群衆は、「押し寄せてきた」とありますから、かなりの数であった事だと思います。しかし主イエスは、その試練の中にある群衆に、語るべき神の言葉を持っておられたのです。主は、その試練の意味、その試練の中にある神の御心、神のご計画というものをご存知であったのです。
そして主イエスは、その試練の民の中でも、突然のかつてない試練に直面させられているペトロやヨハネ達にも、目を留められていたのです。主イエスは、彼らをご存知でした。そして今や、何の収穫もなく、二そうの舟の傍らで、重たい空気に包まれていた彼らの試練も、そしてその試練の意味、そこに隠された神の大いなる御計画も、よくご存知であったのです。
ですから、このペトロやヨハネ達も神の言葉を聞く、必要があったのです。試練の時には、落胆します。そして目の前の現実に虚しく囚われます。そして彼らは、落胆の中に、網を洗っていたのです。しかし、それで終わってはならなかったのです。調子の良い時なら、彼らは主イエスを見るなり、主の許に寄っていった事でしょう。しかし今はそのような気持ちになれなかったのです。彼らは、不安の中にだらだらと網の処理をして、その日はそのまま家に帰ろうとしていたかもしれません。そして家の中で、余計悶々として悩むのです。しかしそれでは、その試練は何も生み出さなかったのです。ただの試練、思い出したくない嫌な出来事で終わったのです。試練に深みがあります。試練の深みに漕ぎ出す必要があったのです。
主イエスは、そのためにペトロやヨハネ達に声を掛けて下さったのです。3節「そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。」とあります。それは確かに、大群衆に話すためには、浜辺に群衆が座って、そして舟で少し漕ぎ出した離れた所から話した方が、効果的である思われたからでもあったのでしょう。しかしそれだけではなく、ペトロ達に神の言葉を聞かせるためでもあったのです。そして試練の深みへと、ペトロ達を招くためであったのです。
私達が地上を歩み以上、試練と無関係でいる事は出来ません。試練は予告なく、襲ってきます。そして先が見えない私達は、それがいつまでも続くかのように感じてしまい、私達の感情も水物であって、情況によって簡単に揺れ動いてしまうのです。しかし、見える現実や、感情というものは、必ず変わるものです。この世界で、永遠に変わらないものは、主イエスと御言葉以外にないのです。
そして「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると」とあるように、試練の傍らには、いつも主イエスが立っておられ、御言葉をもって私達を生かそうと待っておられる事を忘れてはならないのです。試練の時こそ、主と御言葉を求めていく必要があるのです。主イエスは、試練の深みで待っていて下さる事を覚えていきましょう。
第二に覚えたい事は、「御言葉の深みに漕ぎ出す」事です。ペトロとヨハネ達は、そのように徹夜で疲れていましたし、落胆していましたし、とても主イエスの御言葉を聞く気にはなれなかったのですが、まさに主の恵みによって、御言葉を聞く事が出来たのです。もしかすると途中で、うとうとしてしまう事もあったかもしれません。ただ幸い、主イエスと一緒に舟にいて、人から見られていましたので、眠り込む事は出来なかったでしょう。とにかくペトロは、一番近くで、主イエスの話を聞いたのです。そして不漁に囚われていたペトロにとって、自分には関係ないと思ったり、意味の分からない所もあったかもしれません。しかしそれでもペトロは、目の前の主イエスを見ながら、その息づかいを感じながら、主イエスご自身を、身近に肌で感じながら聞いたのです。
主の御言葉を聞くという事は、それが大事であります。主の言葉の意味自体は、「後で、分かるようになる」(ヨハネ13:7)という御言葉があるように、直ぐには分からない事もあるでしょう。しかし大切なのは御言葉を通し、主イエスに心を向けていく事です。そして主イエスに触れ、主にイエスに結ばれていく事なのです。
ですから、疲れ、落胆していたペトロですが、主の御声を御傍で聞きつつ、主イエスが自分の傍にいてくれるという不思議な平安が、ペトロの心を癒していたのではないかと思うのです。そうでなければ、続く主の言葉をとても聞く事は出来なかったでしょう。
主イエスは群衆に話し終えられた後、今度はペトロ個人に語られたのです。4節「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。「深みに漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」という言葉です。しかし、これは酷な、飛んでもない言葉でした。プロのペトロ達が夜通し漁をして一匹も捕れないのです。普通、日中、沖合で、漁をしても魚は捕れないのです。それは漁師たちの常識であったでしょう。ペトロは疲れて、もう網も洗ったばかりなのです。普通なら怒り出してもおかしくないと思います。
しかしペトロは言うのです。5節「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。「しかし、お言葉ですから」とペトロは言っています。原文では、「しかし、あなたの言葉の故に、私は網を降ろしましょう。」とあって、「あなたが語られた言葉の故に」とペトロは言ったのです。
ペトロは主の説教を聞く中に、主ご自身を見て、主にその心が捕えられたのです。ですから理屈では、とんでもない言葉ですが、その主ご自身の故に、ついその言葉にも心を開くことが出来たのです。そしてまた、その主ご自身が自分の目の前に尚もおられたのです。その共におられる主ご自身の故に、ペトロはその主の言葉に身を任せて、従ってみる事が出来たのです。
主が求めておられるのは、この事であります。主が何故、御言葉を語られるかと言って、主にその心が結ばれて、主の故にその御言葉に委ね、従う者を求めておられるからなのです。ペトロは、そのように主イエスに心が満たされる時、あのマタイ14章では、主の「来なさい」という言葉に任せて、嵐の湖の上を歩きだす事も出来たのです。
礼拝で、御言葉が語られるのは、何か良い、ためになる話をするためではありません。主イエスにお会いするためであります。そして主にお会いして、自分自身に語られる主の御言葉に、主の故に、自分を委ねてお従いするためであります。御言葉の中に、御言葉に深みに、主がおられるのです。私達を愛し、私達のために全てを成し遂げて下さる、十字架と復活の主が、御言葉の中に生きておられるのです。
御言葉の深みとは、そういう事であります。主にお会いしないままで、終わらない事です。自分への主の御言葉を聞かないままで、終わらない事です。更にその自分への御言葉に委ね従わないままで、終わらない事です。御言葉の深みに漕ぎ出しましょう。
第三に覚えたい事は、「恵みの深みに漕ぎ出す」という事であります。ペトロが、そのように「あなたの語られた言葉ですから」と言って、6節「漁師たちがそのとおりにすると」と、網を降ろしたところ、何と「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」とあるのです。そしてペトロとヨハネ達は、7節「二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。」とあるのです。
びっくりしたというか、腰を抜かしたのがペトロでした。彼が何十年生きてきた経験では考えられない、あり得ないことであったのです。ペトロは、これは人間の何かではない、ここに神がおられる、感じたのです。神でなければ、こんなことは起こせない。それは長年の地元漁師だからこそ、そう言わざるを得なかったのです。
そしてペトロが、そこに聖なる神を、自分の目の前の主イエスに見た時、ペテロは恐れを覚えました。主イエスは、このガリラヤ湖の隅々まで知り尽くしておられる、主は私の心の隅々までお見通しであられる、と感じたかもしれません。ペトロは最初、舟を出すように言われた時、心の中では主に文句を言っていたり、「沖へ漕ぎ出して」と言われて、とにかく従ったものの、まさか魚が取れるとは全く信じてはおらず、高を括っていたかもしれません。そんな自分を示されてペトロは、8節「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った。」とあるのです。罪人が聖なる神を見たり、神に近づくなら、罪人は死ななければならないと教えられてもいました。
ペトロは、自分の傲慢さ、愚かさ、不信仰さというか、自分の真相を垣間見たような思いではなかったかと思います。ペトロは、それまでゲネサレト湖で自慢の漁師だと自分を思っていたかもしれませんが、これ以後、主イエスにお従いするにつれ、益々自分の真の姿を知って、砕かれていく人生になっていくのです。
ペトロは、そのような自分に恥ずかしくなって、離れて下さいという訳ですが、しかし、主イエスは一緒に舟に乗っておられるのです。主は、そのようなペトロを最初からご存知で、ペトロと同じ舟に乗って下さっていたのです。離れて下さいと言っても、離れられない同じ舟なのです。つまり、あなたがどのような存在であったとしても、私はあなたから離れないよと、そういうおつもりで主は、同じ舟に乗っていて下さったのです。
私達が御言葉の深みに漕ぎ出して、主に近づけば近づくほど、私達は自分の罪、汚れに気付いてきます。しかし「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。(ローマ5:20)」とあります。これが恵みの深みであります。
そしてその主が、更に言われるのです。10節「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。「恐れることはない」、つまりあなた自身がどのような存在であれ、それで恐れる必要はないのだよ、という事です。それどころか、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と、主は言われたのです。「人間をとる漁師」とは、自分のために魚をとる漁師ではなく、神様のために人間を導く漁師という事です。必ずしも聖職者と考える必要はありません。神と人のために用いられる、主イエスの弟子という事も出来ると思います。
ペトロは、自分は漁しか能がないと思っていたかもしれません。しかしそれでいいんだ、そのあなたを用いて、私があなたを神のための漁師にすると、主は言われるのです。「あなたは、なるかもしれない」「頑張ればなれる」ではなくて、「あなたは、なる」と主は言われたのです。それも、「今から後」です。自分の姿を知って、恐れおののいて、一見何も変わっていない今のペトロなんです。しかし主はそれでも、「今から後」と言われるのです。
それは主イエスが、ペトロの舟にのって、ペトロと共におられたからなのです。そして、自分の罪深さを知って、主イエスこそ自らの神であるのだと知った以上、舟を降りても、主イエスがこれから、どこまでもペトロと共にいて下さるからなのです。これが恵みの深みであります。単なる大漁が恵みではないのです。それは過ぎ去っていくものです。しかし主イエスは、どんなに私達が、愚かで、罪深く、失敗だらけであっても、どこまでも共にいて下さって、私達をご自身の驚くべき恵みをもって、神様のお役に立つ者として下さり、用いていって下さるのです。
ペトロのかつての人生は、自分のために漁に明け暮れ、どんなに頑張っても、今回のように徒労に終わる事もあり、いつも一喜一憂、小さい魚と愚かな自分に縛られているような人生であったかと思います。ペトロは全く普通の凡人でありました。
しかしそのペトロが、初代教会の柱として用いられ、カトリックで言えば、初代の教皇となり、世界中に広がるピーターという名前は、ペトロから来ている名前でありますが、世界で最も親しまれている12弟子の一人となったのです。マルコの福音書は、ペトロの書記役をしていたマルコが、ペトロの言葉を記してまとめたとも言われています。
ペトロと共に最も知られている弟子は、パウロであろうかと思いますが、彼も元はキリスト者を迫害し、主イエスの敵であった人物ですが、その彼を通して、ヨーロッパに福音が伝えられ、教会が幾つも生み出され、新約聖書の多くの手紙も記されたのです。そのパウロが、Ⅰコリント15:10で、こういっています。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」。全てただ神の恵みによるのであって、神の恵みが働いたのだ、というのです。そしてそれはペトロとて同じであったのです。
しかし、私はそのような器ではないですし、何年たっても何も変わりません、という方があるかもしれません。しかしそのパウロも、何年経っても変わらず、神様は自分を変えて下さっていないと感じる事があったのです。それはパウロの「肉体のとげ」、目の障害か病、弱さなどではないかと思われますが、彼にも変わらない悩みの種があったのです。しかしそんなパウロが、主の御声を聞いた時、こう言っているのです。Ⅱコリント12:9「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。見える所が何も変わらなくても、尚も弱さに覆われているようでも、しかしそれでも、キリストの恵みが何の過不足なく覆い尽くしていて、全く十分なのだというのです。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」という、「十分に発揮される」というのは、「完全に発揮される」という言葉です。そしてそういう弱さあるパウロを通して、神様は、ご自身の世界宣教の御業を完全に全うする事が出来たのです。
目先の事に一喜一憂してはならない訳です。恵みの深みがあります。神様は、この小さな私達の一人一人を、ご自身のために用いたいと願っておられるのです。恵みの深みに飛び込んで参りましょう。