2022年6月12日 礼拝「命に至る道、命の導き手」使徒2:22-28 中村和司師 

2022年6月12日 礼拝「命に至る道、命の導き手」             中村和司師
<使徒2:22-28>        
22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

車のナビというのは、グーグルマップだとそうでない事も多いですが、大体広い道に導こうとしてナビをしてくれます。その方が安全だからですが、しかし聖書のナビは逆だとも言えます。主イエスはかつて、山上の垂訓でこのように言われました。マタイ7:13,14ですが、
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
命に通じる道というのは、門も狭く、道も細いというのです。しかし細いだけで決して通れない訳ではないのです。ですから受験の「狭き門」ではないのです。受験は頭の良い人しか通れないですが、命に通じる道は、細いだけでどんな人でも通れるのです。
そして広い門、広い道は魅力的ですが、滅びに通じているというのです。それは大河の流れのようで、気をつけないと押し流され、流れに逆らえなくなって、滅びの滝壺に落ちていくしかなくなるのです。それが世という大河の流れですが、それを造り出しているのが、サタンであり、人間の罪であります。
最近は線状降水帯の豪雨で、一気に洪水になる事があります。ウクライナの人達も、まさか今時戦争なんてと思っていたら、とんでもない事になった訳です。この6月は私達の教団にとっては、かつての宗教弾圧を覚える月でもあります。知らない間に弾圧の手は忍び寄っていて、一気に襲ってきたのが6月26日でありました。そして多くの教会は、弾圧から逃れようと、世の流れに迎合して、流されていってしまったのです。
ですからこのような今日ほど、私達は狭く細い、見出しにくいこの「命に通じる道」に、しっかり歩まなければならない事を覚えたいと思います。そして今日は、ペンテコステ後のペトロの説教から、第一に「命に至る道」、第二に「命への導き手」、第三に「命への方向転換」という事を覚えたいと思います。

まず第一に「命に至る道」という事ですが、ペトロはここで詩編16編を引用しながら、主イエスの復活について語ります。この16編はダビデが主の復活を預言したものだというのです。そして28節で「あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」と、「命に至る道」の事を語っています。そして27節の「あなたの聖なる者」とあるのが、主イエスの事だというのです。
こうあります。「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。」そして31節でも再度、『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』と復活を強調して語っています。
ここに引用されている16編は、当時既に旧約聖書のヘブル語がギリシャ語に訳されており、ギリシャ語の旧約聖書というものがありました。ルカは、そこから引用しているようです。ですので、ヘブル語から直接日本語に訳されている私達の旧約聖書とは少し違う訳になっています。より復活が強調され、メシア来臨が期待されていると言えるかもしれません。
そしてこれらを見ますと、主イエス・メシアは死におとしめられますが、自分の力や能力で、復活されたのでないというのです。「朽ち果てるままにしておかれない」「彼は陰府に捨てておかれず」と言われています。主イエスご自身は十字架で、最も惨い死を遂げられ、御体は引き去れ、朽ち果てるしかないボロボロの状態です。しかし、朽ち果てるまま、捨て置かれないというのです。
そして24節では、こう言われています。「イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」。
人間というのは、一度何かに支配されますと、自分自身では、どうにもならなくなります。それも死というものに支配されたなら、全く何も出来ません。主イエスも人間として、敵に支配され、十字架の死に支配されて、ご自身では死にゆき、朽ち果て、捨て置かれるしかなかったのです。しかし主イエスは、どんなに支配されても、そのままで決して終わらなかったというのです。24節では、「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。」とあって、主イエスが自分の力ではなしに、父なる神によって復活させられたと言われています。つまり主イエスの復活の力とは、自分の力に頼る事ではなしに、父なる神に全く寄り頼んで、父なる神に生かされるという事でありました。
先程の詩編16編の27、28節の前の25,26節にはこうあります。「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。」
そしてこれはダビデが、イエスについて言った事だとペトロは言ったのです。つまり主イエスこそ、いつも御父を目の前に見て、御父の臨在の中に身を委ねて、生かされておられたという事です。地上にあって、どんなに世の力に翻弄され、サタンの力に取り囲まれ、死の力に支配されようと、主イエスはただ、どこまでも御父の前におられ、御父と共におられ、あの十字架の上で、御父から顔を背けられ、御父に捨てられたとしても、尚、御父に身を任せ、信頼しておられたのが御子、主イエスであったのです。
そしてこれこそが、主イエスの「命に至る道」であったのです。本当に狭く細い道でありましたが、命に至る真の道であったのです。アダムとエバは、結局その道に歩めなかったのです。サタンの唆しにあった時に、簡単に見える所、感じる所に従って、神の言葉に留まる事が出来なかったのです。神様の愛に留まり、その神に信頼し続けることが出来なかったのです。彼らは、良かれと思い、それこそより豊かな命に与れると思ったのですが、死に至ってしまったのです。
「命に至る道」、それこそどこまでも神を真に信じ、信頼し続ける道、信頼し切って身を任せる道であります。世では、そんな事をすれば、何をされるか分からず、ひたすら恐れるかもしれません。しかしどんなに世に翻弄され、悪に取り囲まれ、たとえ死に支配されようとも、この道こそ命に至る道であって、全てをひっくり返して、復活に至らせる真の命の道だというのです。
主イエスはヨハネ15:9で私達にこう言われています
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」。
これこそが命に至る道です。世の激流の中で、この御言葉に目を留め、主の御愛に信頼し続ける事です。

第二に「命への導き手」という事を覚えたいと思います。ペトロの第一の説教は39節で終わるのですが、その後、3章で生まれながら足の不自由な人の癒しの奇跡が起こり、集まってきた人々に神殿で、ペトロが第二の説教をするのです。それが3:12~26です。そしてそこではペトロは、主イエスの事を「命への導き手」と語っているのです。13~15節にこうあります。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」。
元々この第二の説教の背景にあるのが、生まれながら足の不自由な人の癒しです。それはあり得ない奇跡あって、まさにこの人は、絶望の淵から生き返らされ、復活されられたと言ってもよいかもしれません。しかしそれは勿論、この人に何か力があった訳ではありません。ペトロ達がいた故に起こった奇跡です。それではペトロ達が奇跡を起こしたのか、というとそうでないというのです。主イエスの権威、その復活の命がこの事をなしたのであって、栄光は主イエスにある。自分達こそ全く無力な、死んでいたような者であったが、その命の恵みに与ったが故に、自分達はその管になったに過ぎないのだというのです。
ペトロが自分達を「このことの証人です」(15)と言っているのは、単に目撃しただけでなく、自分達はその復活の命に導かれた経験者なのだという事だと思います。本来自分達は脱落者で、復活の主に会えるような者でなく、その命に与れるような者では決してないのだけれど、こんな自分達が見捨てられずに、主の復活の命に導かれた、だからこそ主イエスをここで「命への導き手」と言っているのはないでしょうか。まさに主イエスがいなければ、彼らの今日も全くなかったのです。
この「導き手」というギリシャ語は、「初め」という言葉と「導く」という言葉がくっ付いた言葉で、「先導者、創始者、導き手」という意味があります。そしてこの言葉は新約聖書では、ここの他、5章とヘブライ書の3箇所にしか使われていない言葉ですが、ヘブライ12:1,2には、こうあります。
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。
主イエスこそ、命への導き手であり、創始者であり、完成者であるというのです。私は、ここの文語訳が好きです。「信仰の導師(みちびきて)また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし」とあります。弱い私達ですが、命への導き手である主イエスを見上げ続け、この方に導かれてさえいるなら、重荷や罪に絡みつかれる事もなく、走り抜くことが出来、主の復活の命に豊かに与ることが出来るのです。
ヘブライ書では、この主イエスこそ、苦難を通して救いの完成者となられた大祭司であって、こう記されています。
「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4:15,16)。
そしてこうも記されています。
「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(ヘブライ7:25)。
またこういう言葉もあります、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」、これもヘブライ書にある旧約からの引用です。
このように私達の弱さを痛いほどに知り、私達のために執成し、どこまでも離れず寄り添い私達を導いて下さる、「命への導き手」がいるのです。パラリンピックでは、目の見えない視覚障害者も、全速力で走ります。それは一緒に走って下さる伴走者がいるからです。
説教のセミナーでご一緒させて頂いた事もあるのですが、藤藪庸一という先生がおられます。和歌山県白浜の自殺の名所、三段壁の近くの教会牧師で、NPO白浜レスキューネットワークを立て上げ、いのちの電話の相談や、自殺志願者との共同生活、また自立支援活動など、あらやる自殺予防活動を行っておられます。そして2018年の段階で、905人の自殺志願者を救助しておられるんです。
その先生が著書の中でこう言っておられます。「『もう誰もおらん』『もう誰にも迷惑かけられへん』。両親や子ども、親族にはもう頼れない、友人には嫌われてしまったと、彼らは、指折り数え、多くの人の顔を思い出しながら孤独の中にいる。『疲れた』『もう頑張れとは言わんといてくれ』『ずっとこうだった』『うまくいったためしがない』。彼らは、諦めることが多かった人生に劣等感を持っているが、それでも自分なりに頑張ったからもうこれ以上頑張れないと考えている。私は、彼らの声に耳を傾けてきた。解決策が見えなくても、そばにいることをやめなかった。ただ一緒に生きて行こうと寄り添った。牧師としてこれまでに905人と関わる中で、一貫してやり抜いたことは、その人を諦めないことだけだったと思う。」
そばにいることをやめない。一緒に生きて行こうと寄り添って、そしてどこまでも決して諦めない。そういう導き手が、まさに命を繋ぎ、命を支え、生かしていったのです。そしてそれを藤藪先生にさせた方こそ、真の命への導き手である主イエス様であります。
この方を見上げ続け、この方に結ばれている限り、私達自身がどんなに行き詰まっていようとも、諦める必要はない訳です。この命への導き手が、私達を決して諦めないからであります。

第三には、「命への方向転換」という事を覚えたいと思います。ペトロのこれらの説教で、両方とも最後に語られている事に、「悔改め」という事があります。
最初の説教では2:38、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。次の説教では3:19,20、「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。」とあります。
ですからペトロの言いたい結論の一つが、「悔改めなさい」、という事であるのです。そしてこの「悔改める」という事がどういう事かと言うと、そのギリシャ語は「心を変える」という意味の言葉で、要するに「方向転換をする」という意味なのです。ですから3:19では、「悔い改めて立ち帰りなさい」と、悔改める事と立ち帰るという事が並べて記されています。つまり本来あるべき方向に、向きを変えるという事なのです。
これまで神を離れた人間は、自分を神として、いつも自分の事しか考えずに、自分に心を向けていたけれど、神様の方に心の向きを変えるという事です。太陽に背を向けて暗闇に向って歩いていたのを、太陽の方に向き直るということです。光に心を開いて、光の方角に向って歩き始めるということです。
2:38の所では、洗礼の事も語られていますが、この洗礼というのは、バプテゾーというギリシャ語で、「浸す」という意味の言葉です。ですので本来の洗礼では、水に浸す儀式が行われます。しかし大切な事は、そのような水による儀式以上に、まず神様の光に、身を浸していくという事が、何より大切なのです。心のカーテンを開けることです。心の窓を開いて、神様からの光と、新鮮な風を受止めていくことです。風自体は見えません。しかし風が触れる時には分かるのです。つまり私達が本当に心を開くならば、神様を体験できるということなのです。それこそが大切です。
3:20の方にはこうあります。
「こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです」。
「あなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエス」。つまり、私達一人一人のための、一人一人に相応しい、まさに必要な救い主に出会えるというのです。つまり「神様って本当におられるのだ」と確信できる、そういう方に出会えるということです。そしてこれは、私達がクリスチャンになる最初の時の経験であるだけでなく、私達が繰り返し経験するところの経験であります。
私達は、それほど道を迷い易い羊だという事です。今や世の中は、人間が作った光に溢れています。しかしそれらは電気がないと消えるしかない、一時的な光でしかありません。心の中まで照らせない表面的な光でしかありません。しかしそのような世の光に惑わされて、私達は簡単に神様からの光に、また背を向けてしまうのです。そして元の暗闇の戻ってしまったと落胆してしまうのです。
しかし神様からの光が、なくなった訳ではありません。悔改めて、もう一度向きを変えて光の方に向き直ればいいのです。光の恵みを知っているからこそ、向き直ることは、以前より容易なはずです。実は、この神様の光に心を向け、心を開く事、光をしっかり受け止める事、これが「祈り」なのであります。聖書の言う祈りとは、お願い事を神様にする事ではありません。神様に心を向けて、神様からの光に心を開くことです。そして光に身を委ね、応答していく事、これが祈りです。
祈る時に、何故目を瞑るかといって、世の光に心を奪われないためです。神様の光に心を向けるためです。私達は手を合わせて祈る事が多いかもしれませんが、聖書ではよく、両手を天に向けて祈っています。神様からの光を全身全霊で受け止めるためです。私達は、世の雑音や喧騒、そればかりか様々な霊に取り囲まれています。ですから私達は、日毎、事毎に、神の言葉の光を頂き、そして祈って心を静め、神様からの光にしっかり心を開いていく必要があるのです。
そしてそのようにして、神様の光に心開き、光に身を委ね、光に満たされていく時、私達の領域から暗闇や世の偽りの光自体が無くなっていってしまうのです。そうすると最早、神様からの光から目を離す事がなくなります。ペトロ達が変えられ、教会を建て上げていく事が出来たのは、ペトロ達がこの神様からの光、聖霊に満たされていったからであります。
そしてそのペトロ達の出発点は、やはり世の漁師だった彼らが、主イエスの光に心開いて、主イエスの光に向って一歩を踏み出した彼らの悔改め、その方向転換からまず始まっていったのです。私は心病んだ人間で、自分では何も出来なかった人間ですが、もう自分ではどうにもならない、最早自分ではなくて、ただ神様を見上げて心を注いで祈る事しか出来ないと、主の御許に身を投げ出した時に、主イエス様の方が来て下さって、全てを成し遂げ、全てを導いて下さる主イエスにお会いする事が出来たのです。
目の前の現実、そして私達を取り巻く色んな状況があるでしょう。今や小さな人間が、自分の殻の中で何とかしようとしても、恐れ戸惑い萎えていくだけではないかと思います。主の御許に立ち帰ることであります。主の御許に、命に至る道があり、主ご自身こそ、私達を導く命への導き手であります。

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