2022年4月24日 第四聖日礼拝「ここに愛がある」 中村和司師
<Ⅰヨハネ4:10>
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
<ルカ23:32―43>
32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
先週は、幸いなイースターを迎えさせて頂きました。そしてクリスマスというのは、12月25日と、日付が決まっていますが、しかし、イースターは日付ではなしに、曜日で決められ、春分の日の後の最初の満月から最初の日曜日となっているのです。これは主イエスが復活された日が、日曜日の朝であるからです。ユダヤ人は、ずっと土曜日を安息日として礼拝を守ってきました。しかしクリスチャン達は、主イエスが復活された日曜日を、主の日として、この日に礼拝を持つようになったのです。ですから、日曜日を主日ともいうのは、「主の日」という意味で、主イエスの復活を記念する日という事になります。ですから毎日曜日の礼拝は、主イエスの復活を記念する礼拝でもあるのです。ですから、イースターは日曜日なければならなかったのです。
そして主イエスが、十字架に掛かられたのが金曜日です。三日目というのは、当日を一日目として数えて三日目、日曜日に復活されたのです。そして最後の晩餐が、木曜日となり、エルサレムに入られたのが、一週前の日曜なのです。この日民衆が、ロバにのって来られた主イエスを、棕櫚の葉をもって迎えたところから、棕櫚の主日と言われますが、その主の姿はゼカリヤ9:9-10の預言の成就と言われます。
こうあります。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」
主イエスは、神の御子であり、人間の真の王でありました。しかし、世の王達とは全然違いました。世の王達は、自ら自身を神として、勝利を得ようと、高ぶって、軍馬に乗って、戦争をするために、都を出入りし、力で地を治めようとします。しかし主イエスは、神の御子、真の王として、父なる神に従い、勝利を得ようとではなく、勝利を与えられた者として、高ぶることなく、ろばに乗って来られ、そして軍隊を一掃し、平和で全地を治めるというのです。世の王と、真の王なる主イエスとは、何と違う事でしょう。比較をするとよく分かります。
今日はそのようにして、人間の罪と、神の愛というものを、よく比較していきたいと願っています。まずⅠヨハネ4:10には、このように記されています。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。
有名な一句ですが、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」、とあります。これは本来、神に創られた私達が、神を愛すべきであるのに愛さなった。それに対して愛されなかった王なる神が、逆に私達を一方的に愛して下さったという事です。私達と神様とは、そのように全く正反対でありながら、その罪深い真逆な人間を、それでも神が一方的に憐み、慈しみ、愛して下さったという事なのです。
それも私達は、神を愛するどころか、御子を十字架にまで付けたのです、そしてそういう私達を、神は滅ぼすどころか、私達を愛し抜いて、御子をあえて十字架に向かわせられたのです。ですから、この十字架において、人間の罪深さというものと、神の愛というものの違いが、極まっているのです。まさに、私達が神を愛したのではなく、御子を十字架にまで付け、そして、御子を十字架に付けるほどに、神が私達を愛して下さったという事なのです。
今日はそのように、十字架というものにおいて極まった、人間の罪と神の愛の対比に目を向けつつ、第一に「覆う愛」、第二に「赦す愛」、第三に「贖う愛」ということに目を向けたいと願っております。
まず第一に「覆う愛」という事です。主イエスは十字架上で七つ言葉を語られますが、その最初になります
34節の、主の執成しの後半の方に目を向けたいと思います。
「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」、
とあります。
その後半で主は、ご自分を十字架につける人々に対して「自分が何をしているのか知らないのです。」と、人々を弁護し、庇っているのです。しかし、実際はどうであったでしょう。主イエスを十字架につけた人達は、自分達が正しくない事をしているという事を、少なからず知っていたはずです。ただその自分の罪深さ、その恐ろしさを十分知らなかったのです。
私達には神様の光が注がれていて、良心もあり、私達は自分の罪を全く知らない訳ではないのです。しかしそれ以上に自分を覆い隠して、自分を守って、自分の罪深さを知ろうとはしないのです。つまり頑なに心を閉ざしたまま、御子を拒絶し、十字架につけたのです。そこにまた人間の罪深さがあるのですが、それに対して主イエスは、人間の罪深さ、不真実、汚さ、醜さ、その醜態を全て、何もかも知りながら、尚も私達罪人を弁護し、庇い、執成し、覆って下さったのです。どこまでも心閉ざし、隠し、偽りながら、平気で残虐な罪を犯す人間に対して、どこまでも全てを知り尽くしながら、それを糾弾する事無く、それでも弁護し、庇い、覆おうとする神の愛。何という対比でしょう。
しかし、そのような愛でなければ、人間は救われないのです。都合の悪い事を隠そうとする幼子を、問い詰め責め立てても、幼子は心を閉ざすだけなのです。イソップの「北風と太陽」ではありませんが、暖かさで覆われなければ、人間は心を開けないのです。私達は、自分がどんなに自己中心で醜いかも、よく分かっていません。追い詰められた時の自分自身が、どんなに惨めな存在かには目を向けようとしないのです。
しかし主ご自身は、私達が実はどんなに醜いかをよくご存知であります。情況次第でどんなに惨めな姿に豹変してしまうかを、何もかも知り尽くしておられます。そして人間や法律というものは、そのような罪人を、責め立て裁くことしか出来ません。ですから人々は恐れて心閉ざすしかないのです。しかし神の愛は、そのような罪人を理解し、弁護し、庇い、覆うのです
ですからこそ、あのペトロは立ち直る事が出来ました。あれほど自分こそはと、主イエスに命懸けで従いますと啖呵を切りながら、下の根も乾かぬ内に、三度も主イエスなど知らない、と神に誓ってまでして主を裏切ってしまったのです。それは、彼自身を支えていた自信というものが、根底から崩れ去った時でありました。ペトロは、他の弟子に顔向けが出来ないばかりか、主イエスの前には最早出れない存在となってしまったのです。
しかしそのペトロが立ち直れたのは、ただただ「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(ルカ22:32)と、そんなペトロを何もかも御存知の上で、慈しみ、祈り続けて下さった主の愛の故でした。主イエスこそ、私達の最も惨めな最悪の姿をご存知の上で、私達を理解し、弁護し、庇い、覆い包んで下さる方であります。ここに愛があります。
第二に、「赦す愛」というものに目を向けたいと思います。34節の前半に、「父よ、彼らをお赦しください」という主イエスの言葉があります。この「赦す」というギリシャ語は、「行かせる、見逃す、そのままにする」という意味合いの言葉です。しかしそれに対して人々はどうであったのでしょう。33節に「そこで人々はイエスを十字架につけた。」とあります。主イエスを十字架に付けたのは、人々皆であったとルカは記しています。
そしてその「人々」について、23章18~23節にはこう記されているのです。
「しかし、人々は一斉に、『その男を殺せ。バラバを釈放しろ』と叫んだ。このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは三度目に言った。『いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう』。ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった」。
主イエスには、何の罪もありませんでした。主イエスは釈放されるはずであったのです。しかし「人々」が、「殺せ、十字架につけろ」と叫び続けたのです。ピラトの判断を三度も覆して、「人々」はどこまでも「あくまでも」、主イエスを十字架に追いやったのです。そして主は鞭打たれ、瀕死の両手、両足に釘が撃ち込まれ、下着まで奪われ、人の尊厳も何もかも奪われ、あざ笑われ、さらし者にされ、呼吸困難と心臓破裂の中で、最も悲痛な死を遂げられたのです。
それはユダヤ人にとって、最も残虐な呪いの死でありました。人々は考えられる限りの酷い恐ろしい虐殺へと、主イエスを突き落としていったのです。神から離れた人間は、今や悪魔に倣い、神の御子に対して、妬みの限り、憎悪の限り、悪の限り、罪の限りを尽くす、最早赦され得ない、滅ぼされるべき存在でありました。それもこのような無垢な愛されるべき神の独り子に、ここまで暴虐の限りを尽くしたのです。ですから、このようなとんでもない人間に対して、神は容赦なくその怒りをぶつけられて当然でありました。そしてそれこそ悪魔が期待した事だったかもしれないのです。
しかし、その虐殺されようとしている瀕死の御子自身、第三者ではありません、その引き裂かれ、激痛に全身が震え、息絶え絶えになっている、その当人の心の底から溢れ出た叫びが、「父よ、彼らをお赦しください。」であったのです。相手を呪うでもなく、自分を救ってでもないのです。どこまでも悪を成す相手に、何一つ求めず、とことんなぶりものにされ、虐殺される自分を守るでもなく、「父よ、彼らを」と、心にあったのはただ「彼ら」への思いであって、彼らの救いなのです。「彼らをお赦しください」と、彼らが裁かないで、見過ごして下さい、赦して下さいというのです。
しかしそのまま見過ごしたら、自分は引き裂かれて死ぬのです。それも聖書は言うのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」。何と御子は、神が人を愛する故の、罪を償ういけにえそのものだというのです。ですから御子から溢れたのは、その神の愛そのものであったのです。その十字架は、人の罪、彼らの残虐を自ら自身が償うため、自らがその裁きを身代わるためだというのです。
主イエスが、何故その両手を自ら差し出され、両手を広げて、十字架の上にのせられたのか。それはその両手を広げた自らの全てをもって、「父よ、彼らを」という彼ら罪人、私達の罪、そのおぞましい限りの罪を全て、自らがそのまま受けるためであり、背負うためであったのです。何故なら人間の罪は、そのように悪の限り尽くす事しか出来ないからです。やろうと思っても出来ないのです。どうしても自分にしがみつき、気が付いたら他者を蹴落としている、それが人間の罪の姿であるからです。ですから御子は、「彼らをお赦しください、そのまま見逃して下さい」と叫ばれたのです。「彼らは自分ではどうにも出来ないのです。ですから彼らをそのままに見逃して下さい。その全て私がそのまま背負います。私が全て引き受けます。」。主イエスは、息絶え絶えの中からそう叫ばれたのです。
際限のないような私達の罪を、どこまでも、無条件に、一方的に背負い、ご自身を犠牲にして償って、赦して下さり、私達を抱いて下さる。ここに愛があります。
第三に、「贖う愛」ということを覚えたいと思います。贖うとは、買い取る、自分のものにするという事です。
主イエスが、ご自身を十字架の犠牲にして流されたその血潮。それは真っ黒な私達の罪を償い、聖なる神の怒りを宥めるだけではなく、それは私達を買い取るための代価でありました。それは決して何かでは造り得ない、代わりようのない、余りに高価な代価でありました。そのようなものをもって、何故、余りに価値のない、無い方がいいような本来捨てられるべきものを、買い取られるのか。
世では絶対あり得ないのです。世は使い捨てです。持てる者、強い者、能力ある者、立派な者、成功する者、格好よい者と、何か価値ある間はいいのですが、しかし何も無い者は捨てられ、忘れられ、そういう者ほど、世で最初に犠牲にされて、踏みにじられていくのです。ですから 皆恐れて、競争し、蹴落とし合い、どこかで挫折し、絶望し、自暴自棄になっていくのです。どこの世界に、捨てられている何の価値のない者のために、自分の命まで献げ犠牲にするような事があるのでしょう。あり得ないのです。
しかし主イエスは、ご自身に話しかけた十字架上の重罪人の一人にこう言います。
43節「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。
この重罪人は、自他共に認める何の価値無き者でした。ですから十字架に付けられていたのです。しかし、その価値なき重罪人に、主イエスは言われたのです。「あなたは私のものだ。だからあなたは今日私と一緒に楽園にいる。それはあなたを、私が自らの命をもって買い取ったからだよ。あなたは、それほど高価で尊い存在なのだ」。ここに愛があります。
それこそ人間の罪の世とは、全く違う世界なのです。そのような世界があるのです。「楽園」というのは、天国だけではありません。主の十字架の愛によって買い取られた、全き愛が支配する、恐れのない世界のことであります。そこでは最早、縛られる事も、捨てられる事も、引き離される事もありません。主イエスがただ一度全く献げられるほど、高価なものとして、私達が神の愛に握られ、支配されている所なのです。
そしてそれはまた、主がご自身を全く、私達一人一人に永遠に与えて下さっているからでもあるのです。
マタイ25:40という所に、王なる主イエスのこのような言葉があります。
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。
この「最も小さい者」が、どんな価値無き小さい者と思えたとしても、主は「わたしの兄弟」と言って下さるのです。そしてわたしと一体だ、わたしがその只中にいるのだと言っておられるのです。つまり主ご自身が与えれているのです。マザーテレサの修道会のシスター達が何故、触るのもはばかられるような捨てられた人達に仕える事が出来るのか。それはその「最も小さい者」達の中におられる主イエスに仕えているからです。
主の贖いの愛とは、価値なき私達を買い取って、ご自分のものとして下さるだけでなく、ご自身を与えて、その者に価値を創造していく愛であります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。」とあります。「御子をお遣わしになりました」とは、御子を永遠に与えられたという事であります。ですからそこに与えられた御子の命が、愛が躍動していくのです。
主イエスが、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:47)と言われたのは、名もない「罪深い女」でありました。しかしこの女性が、「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(ルカ7:37,38)と記されているのです。この女性は、最早何にもないような女性であったのです。しかし、そこに、最も純粋で高価な愛が溢れて、愛だけで一杯になったのです。まさにこの女性は、多く赦されなければならないような、汚れた者として、見下げられていただけの女性かもしれません。しかし主が、その女性の心に来られる中に、最も清らかで美しい愛の業が生み出されていったのです。
価値無き者に、自らを与えて、尊く価値ある新しい命を創造していく、ここに愛があります。
私も本当に弱く愚かなものでありながら、傲慢で自分中心の殻の中に閉じ籠っていましたので、自らの罪深さが分からない人間でしたが、求めていく中に、自分の惨めな姿に打ちのめされるようになりました。
そして、ヨハネ20:19,20の
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」
という十字架から復活された主の言葉に出会った時に、この神の愛に圧倒されたのです。一方的に近づいて下さり、無条件に覆って、受け入れて下さる神の愛に、本当に生きて行けなかった私でありましたが、全てが変えられていきました。特にこの主イエスの十字架によって、自分を本当にダメにしている罪、自己中心というものが、処分されていること知った時に、本当に解放されていきました。
そして、このような者も献身し、神学院に行き、聖書も深く学べるようになった時、先々週開きましたが、ルカ19:5にあります、どうしようもない悪人ザアカイへの主の御言葉、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」という御言葉の意味に驚かされたのです。元のギリシャ語の意味は、もっと強い言葉で、それこそザアカイがどうであろうと、無条件に、主イエスが一緒に宿って下さる、そうせねばならない、そうする事に定まっている、というような言葉でありました。それこそ無価値の者を、どこまでも追い求めて、ご自身を一方的に与え尽くして下さる、驚くべき神の愛であったのです。再びこの神様の御愛に圧倒されつつ、私の献身生涯での最初の礼拝説教は、この御言葉をお伝えするところから始まっていった事でありました。
主イエスは、赤ちゃんにまでなって私達のところに来て下さり、最悪の十字架の地獄にまで降って下さり、そして全ての罪を処分し、死を打ち破って復活されました。それは何もかも御存知でありながら、どこまでも私達を追い求めて、私達をご自身のものとして買い取り、私達の内に住んで下さるためでありました。ここに愛があります。
この驚くべき愛を覚えながら、あのザアカイが、木の上から見下ろすのではなくて、主イエスの御許に飛び込んでいったように。またこの十字架上の犯罪人が、主の御前に遜って「わたしを思い出してください」と、主イエスにただ自らを委ねていったように。この主の御愛に心開いて、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という、主の御言葉を、しっかり自らの心に刻ませて頂きましょう。